イエス・キリスト   ACIMとは   目次 
イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など

イエス・キリストが明かす

とっぴょうしもない得を収める
秘訣


Raj Gathering質問者:極楽をいつも経験することがわたしたちの生まれながら持つ権利だとお説きくださいました。そして嫌な物質的な現象が現れるのは、極楽が遮断されたせいだとおっしゃったんですが、この嫌な物質的な現象について理解を深めたいんです。

ラージュ(=イエス・キリスト):逆に極楽が遮断されていないことによっても、物質的な現象が現れるのだが、何でその方について聞かないのか。

質問者:なぜなら、わたしたちの多くは、経験するはずの極楽が遮断されているからです。これは様々な形で現れているようです。しつこい頭痛から耳の痛みや歯の痛み、関節炎、筋肉痛、衰弱させる病気まで、様々な形でですね。で、わたしはずっと考えてきたんですが、これらの現象には何らかの意義があるのでしょうか。

ラージュ:先ず、はっきりさせたいことがある。あなたの挙げた物質的な現象の例はすべて肉体的な現象だった。が、遅刻しそうで会議へ急いでいる途中で交通渋滞に巻き込まれてしまうようなことはどうだい。次から次へと赤信号ばかりに停止されスムーズに進めないでじりじりすることはどうだい。行く先の近くに駐車できる場所がどこにも見つからないので困ってしまうことは?

つまり、極楽が遮断されたことで現れる現象は、肉体的なものだけではない。あなたの経験を全体的に渡るのだ。

イエス・キリストの引用


極楽が遮断されてしまう原因は、あなたは充足を経験するための許可を自分に与えていないということだ、紛れもなく意識的にね。

それだけ。

何で許可を与えないかというと、理由も、理由を裏付ける妄想も、人によって異なる。それぞれは皆、根拠があるように見える。で、どうやってそれらの妄想を暴くのか、知っているかい。

じゃ、最も効果の早いやり方を教えよう。

それはとっぴょうしもないほどの得を経験するための許可を自分に与え始めるということだ。

要するに、説明のつかない得の経験を許可するわけなのだ。いいかい。この許可を自分に与えるのは、充足を遮断している原因を突き止めるためにじゃないぞ。説明のつかない得を経験するためにだ。

こうやっているうちに、あなたの習い性となった反論はすべて浮かび上がりやすくなるのだ。

これはいいことだ。

一つ一つが浮かび上がったら、それぞれに対して抱いていた確信を取り消すのだ。相手にしないようにして、それぞれの効力を取り除くのだ。一つ一つに向かって、「そうか、お前はおれの妄想の一つだったのか。説明のつかない得の経験をせき止めるためにおれが使っていたものだったのか。もう要らない。あばよ。」と言って厄介払いすればいいのだ。

あいつと戦うんじゃない。あいつと議論して勝とうとするんじゃない。

あなたは、説明のつかない得を受けるために、自分に許可を与えなければならない。ところがあいつの正体は妄想だ。すなわち許可しないことがもっともだという根拠となっている妄想だ。でもこの正体が分かればそれだけでいい。

イエス・キリストの引用


「なんぢらに御国(みくに)(たま)ふことは、汝らの父の御意(みこころ)なり《ルカ伝12:32》」という聖句はどういう意味か。

分かる?

それは父は、自分の存在をことごとくくれているという意味だ。「父」という言葉を「母」に置き換えてもいいんだけど、父の自己表現であるあなたに、何から何まで出し惜しまずに与えているということだ。

それがゆるぎない事実。

父のすべてはあなたたちの居るところに現れている。なのにあなたたちはそれを経験しないことをもっともだという根拠をつくりあげておいた。だがあなたたち一人一人は、その根拠が持ちこたえない域に必ず到達する。

必ず到達するぞ。

あのな、あなたたちの惑星では、目覚めた人の数が多くなればなるほど、「限界」という概念をあなたたちと共に信じ込んでいる人の数が少なくなる。そうなると、「限界」という現象を維持することがますます難しくなるから、あなたたちは、自分の得を拒否し続けることだけで、苦労してヘトヘトになり、「おかしいな」と思うようになる。

あなたたち一人一人の知っているように、ある「仕事に対する考え方」が一般に採用されている。ところがわたしは、「説明のつかない充足に対する考え方」を採用するよう、あなたたち一人一人に勧めている。

「仕事に対する考え方」では、「骨折ればそれに等しい報酬が得る」と、また「実にすばらしい商品を売ればより大きな報酬が得る可能性がある」となっている。「骨折れに対する報酬以外には、良いものを手にする手段がない」という習い性が信じ込まれるようになっている。

しかしそのことは、ただの概念にすぎないので、真実ではない。

これは実際には、仕事をサボってごろごろしていても、無限大の裕福が持ているという意味になるのか。どこかにじっと座り込んでも、裕福があなたの玄関にたどり着くと期待していいのか。

答えは慎重を要するので、二つに分けて答えよう。

イエス・キリストの引用


一つ目の部分では、答えは「はい」とだ。あなたが存在するからだという理由だけで、説明のつかない充足がやってくることを期待してもいい。あの「仕事に対する考え方」から抜け出すためにだ。あの考え方は、根深く決まり切っているもので、「苦労に対する報酬でないものを手にするわけがない」という考えによってしっかりと補強されているものだ。

では、実際に「はい」と答えれば、どうなるのだろうか。

自分の得は自分のもとにやってき始めるはずだ。もっとも、自分の「得」というのは、紙幣のようにな、自分と無関係なものではない。紙幣というものは、自分と別のものなのだ。と言っても紙幣がやって来ないとも言っていない。

起こるのは、あなたは、新しい生き甲斐に活気付けられ、そのために自然に行動を起こすようになるのだ。おまけに自分の用意しなかった経路を通しても、充足が実現されてくるようになる。すなわち「おれはあれこれを仕掛けておいたのでこれが自分の生活に現れた」等と自分の手柄にすることができない。

だから、人生の出来事に無関心でいつも家でごろごろしている、世界の富を引き付けているぐうたらになるわけがない。




とはいえ、必須の第一歩は、非合理で説明のつかない充足を経験する許可を自分に与えるということだ。これは「あなたに天国を与えることが父の喜びだ」からだけだ。父は、無限の知性でも、生命の本源でもある。自分の実相を自分の自己表現に出し惜しむことができないのだ。

だからあなたが存在するならば、あなたは父の完全に具象化されたものにほかならない。

同じく、木の葉が存在するならば、それも父の完全に具象化されたものにほかならない。また原子すなわちエネルギーパターンが存在するならば、それも父の完全に具象化されたものにほかならない。

極楽が遮断されたという現象は、自分のことに対して自分で定めた定義がもたらしたことだ。

その定義は、「あたしは充足に値しない」、または「どうせおれは無職者じゃ」、または「就職はできたが給料が低い、転職できない」、または「国家の経済状態が好ましくない」となる。不景気を背景には、「僕は必要以上の教育を受けている」というのもある。

経験や教育の足りなさとは限らなく、就職するためには経験や教育が過剰だということもある。従って欠乏で苦しむ原因は、頭が良過ぎること、または頭が良くないことになれる。

イエス・キリストの引用


この集会の基調は、あなたたちの実相を神の子として正しく確認することによって、あなたの生得権、すなわち生まれながら持つ権利を要求することだ。あなたは、神の子で神の自己表現だ――神が神自身の存在を何から何まで出し惜しまずに与えた自己表現だ。

で、自分の実相をどうやって正しく確認するのだろう。

自分のことを神聖な存在だと描く長い一連の単語ではできない。しかし、長い一連の単語は、自分が思い切って十分に静止することができるために、安全感を与える背景を作り上げることに役に立つものだ。

自分が十分に静止すれば、自分の内側に沈むことができる。

内側に沈まなければ、自分のことを頭の良いやつだと感じさせるペチャクチャのおしゃべりが頭の中でジャンジャン響き渡っている。しかし、内側に沈むと、あのしゃべりが止み、ひそやかな静けさで自分の本質を経験することができる。

一連の単語は最終的に貴重だ。なぜなら、その助けで、自分の内部にある静けさに沈み、その中にある自分の本質に着くと、そこに居るのは、充足に値しない愚かな阿呆ではないということが把握できるようになるからだ。そして自分の本質を直接に経験すれば、充足に値しない…《原文は解釈不可》…。

一連の単語は助けになる。その助けで、あなたは、理性を通して、思い切って内側の静けさに沈み込むことができるようになるからだ。沈み込むと、自分の考えていることが何であろうとも、内側にあるものを経験することができる。

自分の本質に接続することで、自分の実相の姿を直接に経験することが始まる。

ここからはアドベンチャーが始まる。このアドベンチャーでは、あなたは、自分の実相を発見し、この実相は、神のことを現しているすべての本当の表現と全く同等だということが分かる。

覚えておいてほしい格言がある。わたしのつくったものではないが、こうなる。

イエス・キリストの引用


「人は神ではないが、神は人をことごとく構成している」

この格言は肝要な区別を表している。というと「おれのことは神だ」とか「人は神である」とか宣言すれば、神のことが、あなたたちの抱いている「人」という概念に基づいて定義されてしまう羽目になる。

要するに、あなたたちは、分解されているうえに、分極された様子の寄せ集めであるかのようなものだ。そのゆえに、神のことをも、愛情でこもっている面と怒りに満ちている面をもつ分極されたものと見なしてしまう羽目になる。

人は神ではないが、神は人をことごとく構成している。神の真相を知りたければ、あなた自身に対する観念から始めるのではない。あなた自身に対する観念を作り上げるすべての定義を黙らせるのだ。

それをするのには、静止になって自分の内側に沈むのだ。内側には、あるなぞのものが既にある。これを発見する機会が待ち受けている。

この「なぞのもの」の最初の印は平安。

次の印は喜び。

次に現れてくる印は愛。

この愛は、スイッチでつけたり消したりするようなものではなく、避けられないものだ。この愛はあなたそのものなのだ。

思考や推理から生じた定義を根拠とするのではなく、経験を根拠として自分の実相を確認したことになる。こうなったらあなたは、ある運動を感じているのだと気が付く。

この運動の最初の特性は、完全性と安全と難攻不落だ。三つの様子のようだが、経験としては分けられない一つの様子だ。

次は動機のような運動が感じられるようになる。なぜなら、あなたは自分自身に対して意義をもつようになり、人生も意義をもつようになるからだ。ここでは自分の得を経験させない根拠を持ち出さなく、自分の極楽を遮断するものを活用しない。

はっきりと言っておくけど、極楽というのは全く当然のものだ。

極楽は素晴らしいが、圧倒的ではない。あなたは自分自身のことを制限している定義を採用しているが、自分の得はこれらの定義に遮断されているよ。

神は何から何まで出し惜しまずに与えている。これは神からの賜物だ。この賜物は、絶えずあなたの存在の本性と運動そのものなり、このありのままを固守して譲らないものだ。

とっぴょうしもない得というとっぴょうしもない充足が起こるために、ほんのわずかな許可を与え始めればどうなるだろう。ちょうどその瞬間には、とぎれない充足の流れの経験を許す扉に割れ目が入る。このとぎれない充足の流れを経験することは、骨折りの報酬ではなく、あなたの生得権なのだ。

「こりゃ簡単過ぎじゃないか」と言いたくなるかもしれないが、実に簡単なものだ。ただしあなたの裕福、すなわちあなたのとっぴょうしもない得には、ある犠牲が要求されている。

イエス・キリストの引用


というのは自分の得を自分の手柄にする満足感を犠牲しなければならない。自分で何か成し遂げて自分の手柄にするブライドは、麻薬による刺激のようなもので、エゴが取り除きたいようなものではない。

けど、これを犠牲しなければならない。

無条件愛の絶対的表現を受け取る人になることは、屈辱的な経験だ。骨折りの報酬でないものを受け取ることは、屈辱的な経験だ。なぜなら、あなたは無力のままになってしまうからだ。

自分には権威がいささかも感じられない。

この屈辱では、自分自身のことを物乞いと等しいものだと思い込んでいる。その結果、自尊心を適当な程度まで経験するために、「仕事に対する考え方」という概念にふけ、自分の得を骨折りの報酬として得ようとしているよ。

あなたたちはある王の息子たちと娘たちのようなものだ。生得権が気高さと富だ。なのにこう言う、「これは自分の骨折りの報酬として得たものではない。いまいましい!自分は家出して自分の力で成功してみせる。そうしたら自分の価値が感じられるようになる」と。

こういう人は全く富裕で気高い、神聖ともいうべきものだ。なのに、家出して庶民的な態度をとる。富と気高さという無くなり得ない生得権を無視しながら、苦労するようになる。

言っておくけど、あなたの実相は、神聖な存在で、神の子で、神である無限大精神の直接表現で、おまけにキリストそのものだ。なのに、自分の実相を無視して、世間に認められるようになるために、自分の得を自分の手柄にすることができるように、自分の得の責任を自分でとっている。

しかし、自分の実相を心から受け入れ始めると、そして自分の得の責任を解除し始めると、理由もなく驚くべき事々が起こり始めていることに気が付く。

あなたたちの多くは、遊び半分に、自分の無限大ととっぴょうしもない裕福にちょっとだけ手を出している。例えば駐車できる場所が見つかると思えば、案の定、見つかる。また高速道路にある交通の中で十分な余地がずっと与えられるので、楽に車線変更などができ何事もなく目的地に着くことができる。こんなことが起こるじゃないか。

けど、自分の力で起こさせたとは言えない。自分の力で起こさせたとすれば、やり方が人に説明できるはずだ。そして説明を受けた人も同じことを起こさせるようになるはずだ。

しかし実際に説明できることは何だろう。

「ただ抵抗しないで受け入れたのさ。不思議なことが思い浮かべたら、それが起こるのを許しただけだ。おれ、何もしようとしなかったら、起こったんだよ。」と言わなければならない。

大したことではないけどね。




このような小規模の不思議な出来事を数多く経験しても、まだ自分にとって耐えられる。なぜなら、人生においてほかにあるより重大な部分では、自分はまだ責任を握っていて、自分の成し遂げた手柄で刺激を感じているからだ。

しかし、不思議な出来事の規模をより大きくし、とっぴょうしもない得がいっそう多く入ってくるのを許せば、あることが明らかになるときが来る。それは小規模ではなく、とことんまでやろうと決心しなければならないということだ。

そのときには、どれほど自分が責任をもつのが好きか、またその刺激がどれほど大事にしていたかが明らかになる。その上、自分がどれほど腐敗してしまったかがぞっとするほど明瞭になる。

ずばりと言っておくけど、あなたは自滅が病み付きになっている。すなわち自分の実相の存在を否定することが病み付きになっている。だから神を否定することが病み付きになっている。これは自分の手柄を自分で成し遂げたことによる刺激が病み付きになっているからだ。これを知るようになる。

このようにずばりと言って退けたのは、力説するためではなく、強く印象付けるためでもない。ただ事実をありのままに話しただけだ。あなたは自分のとっぴょうしもない得を経験するのを拒絶する限りは、自分のエゴ意識をしっかりしたものとして維持し続けることになる。

しかも自分の手で作り上げた得は、どれにしてもいつまでも不確かなままだ。

失われかねないぞ。それゆえ二つのことにふけってしまう。一つは、自分の手柄に対する誇りだ。もう一つは、自分の得を失うかという無くならない不安感だ。これは庶民の世界に家出した王子や王女の経験することだ。家出さえしなければ、自分たちの生得権を途切れなく経験し、自分たちの完全さをも経験していたのに。

手柄がもたらす酔いと誇りの裏面には、その正反対のものが絶えず潜んでいる。しかも自分の完全性を心から感じることはないし、警戒を緩めることができない。

あなたはコントロールをどうしても手放そうとしない。なぜなら、自分の手柄は、どれもこれも自分のコントロールを通して成し遂げてきたからだ。

幸いなことに、「目覚め」というのは、このように妄想にふけっているあなたたちによるものではない。

幸いなことに、いつまでもあなたたちにあり、あなたたちの目覚める動機にもなっている先ほど語った「完全性」と「神聖さ」がある。

幸いなことに、あなたたちが本当に誰なのか、本当にどこに居るのか、森羅万象が本当に何なのか、その記憶のなごりまで残らず遮断することができない。

幸いなことに、あなたたちは自分の手柄と誇りにおぼれている中で、自分の完全性の経験が残らず遮断できない。また「あなたに天国を与えることが父の喜びだ」という内なる確信も、「得を報酬として得るための骨折りをしなくてもいい」という内なる確信も残らず遮断できない。




人は目覚めると、極楽を遮断する信念を支持することを取り下げる。目覚めている人の数が増えるにつれて、煩悩の存在という夢、すなわち妄想は、弱くなる。

あなたたちのうちますます多くの人は、とっぴょうしもない得や充足が入ってくることを許せるという確信を抱くようになってきている。またそんな人は、自分の充足を自分で作り上げようと苦労するのではなくて、かえって自分の充足に屈服しようとし、思い切って「コントロールのない状態」の瀬踏みをしている。

遮断された極楽とはな、、、

王子または王女は、「いやだ、父、僕自分自身でやってみたいんだ」と言いたかったので、意識的な決断で、自分の王族の身分と生得権から一歩離れてしまった。

自分自身でやってみたことで、自分の生得権の経験だけでなく自分の実相の姿としての経験をも犠牲にしてしまった。しかも完全さを苦労の報酬として得なくても自分が既に完全であることが知覚されなくなってしまった。

よろしいか?

あなたたちが無知を経験しているのは、自分たちの意識的な決断の結果だということを知らなければならない。これは責めを負わせるためではなく、宮殿に帰るための必要なものが自分のうちにあるということを知らせるためにだ。

宮殿から離れては、あなたたちは、自分たちの既に持っているものを機械的に複製するという目的で、世の中の権威を頼りに、自分たちの行動で表現しようとがんばっている。しかし、気を変えてこれを止めるために、自分たちは十分な権威をもっているのだ。

麻薬常用者のように、意志の力で、麻薬を徐々に止め、一応使わなかった期間に達することができる。麻薬を使わないで我慢することは、苦しくなればいつでもまた使ってもいいという構え方では、ある面では難しくないのだ。

しかし、真偽の本当の吟味は、清水の舞台から飛び降りる思いで麻薬との縁をきっぱりと切るところにある。

同じように、自分の限られた自己評価を手放し、変わりなく自分のものである自分の得を経験することを自分に許さなければならない。その上、自分の手柄を成し遂げるためのコントロールとの縁をきっぱりと切らなければならない。

これは正に目覚めの中心だ。

なぜなら、このところでは、自分は父の心と異なる心をもつまいと決心するからだ。

まさに父の心と異なる心をもつまいと決心するところだ。そうすると「自分」というものをまるっきり喪失するのではないかと思うだろう。

興味深いことを知りたいかい。

「自分」というものは、あの王子と王女のようなもので、いつまでもずっとありのままになっている。あの王子と王女は王族の身分で富んでいる。豊かに富んでいる。なぜかというと自然にこうなっているからにほかならない。何かを成し遂げたからではない。

王子たちと王女たちは、山頂にある城から降りて、麓にある村で靴直や針子等に成り済まそうとしている。しかし、どんなに長い年月を掛けても、またどんなにしつこく自分のことを庶民だと主張しても、本当はずっと王子または王女だったのだ。

彼らの身分や性質などはずっと依然のままだった。なのに苦闘にうつつを抜かしている。

イエス・キリストの引用


思い切って神が一切合切だということを信じ、自分の手柄にならない、説明のつかない得を自分に経験させてやることをあなたたち一人一人に勧める。そうしたら、自分の実相の気高さによる極楽が途切れなく流れ込み、自分の実相が確認されるようになる。

これで「麻薬のない生活」に例えられた「エゴのない人生」が望ましくなる。

ポール君《P・タトル》なら、コントロールを止めてからもう10年たった。「非常識だぞ。こんな生き方を続けるなんて、おれは気が狂っている。何もかも崩れてしまうに決まっている。」としみじみと弱音を吐いたことが何回もある。

だが崩れてしまったものは何もない。

それにもかかわらず、今起こっていること、また今まで起こっていたことを自分の手柄にすることができない。なのに彼も、あなたも知っている通りに、彼はずっとなくてはならない要素だった。

だから「自分」というものが失われることはないのだ。恐れは大体無くなるけどね。

このテーマでわざとかなり長く話していた。この内容について心に留めてほしい。あなただけに限らず、このグループの皆さん、納得がいかないところがあれば、挙げてみて、もっと深く追求してほしい。


質問者2:「神は自らを助くる者を助く」という格言を小学校6年生の授業で学んだんですが、「自らを助くる」という部分をどのように考えればいいでしょうか。

ラージュ:「父に屈服する」という考えが全然理解できない人々は、助けがあるという事実について何らかの形で理解しなければならない。

あの格言が登場してきたのは、「毎日、あらゆる面で、わたしはどんどん良くなっていく」というアファメーション(肯定的自己暗示)がはやってきた同じころだった。あのころは自分の考えと自分の世界との関係が認められようとする時期で、いわゆる「実用的な形而上学」という思想の初期だった。

きちんと整っている考えがきちんと整っている反応を自分の世界から引き出すのだが、これが分かると、精神と世界には、ある根本的な完全性があるということに気付き始める。

このことを把握し始めると、神のことをもっと深く洞察することができるようになる。というのは神のことが分離されない、分極されない根本的知性だということも、神のことが優しくほほえんだりかっとなったりするお天気屋でもなく、気まぐれでもなく、信頼できる、理性のあるものだということも、いっそう本当らしくなってくるのだ。

父の意志に屈服できるようになっていなければ、自分の常識を働かすべきだ。しかしあなたは今、その段階に止まっていない。

「自らを助くる」という考えは役に立つ足掛かりとはなっていた。

しかしもう、忘れ去らなければならない。

なぜなら、あなたは、聖霊の意志、すなわち父の意志に屈服するという考えが把握できるようになってきたからだ。把握できるようになってきたのは、自分の本来の「存在という運動」とのつながりが密接になってきたので、その「存在という運動」の信頼性が示されているわけなのだ。




先ほど説いたように、動機が全然ない、生き甲斐が全然ないという状態になるはずがない。あなたは世界の富または自分の得が玄関に訪れて来るのを待ち、家でごろごろするぐうたらになるはずがない。

「神は自らを助くる者を助く」ということを自分の存在の原則として取り除くと、ぐうたらな生活を送りながら得を受けるという無意味な、無責任とでも言える状態になってしまうではないかという心配がよくある。

そんな状態では世界に対して何の反応も起こさない。だから無責任だ。しかし自分は、自分の本来の「存在という運動」につながると、世界にかかわり、反応的になる。何かやっていることになるわけなのだ。

ただしやっていることは、神の意志でもある自分の実相の意志だ。自分の本来の「存在という運動」につながれば、「我が(こころ)にあらずして御意(みこころ)の成らんことを願ふ」という聖句の通りになるからだ。

いいかい、この聖句の意味を実行すれば、自分の実相からの分離が無くなる。なぜかというと自分の実相と一体になるからだ。

「神は自らを助くる者を助く」という格言では、自分は自立されたままになっている。理知的に自らを助ければ神の助けを受けるものの、「得が自分の苦労した報酬」ということに逆戻りしてしまう。

しかし重要なのは、この格言が登場してきた時期では、そのための需要を満たしていた。人々が無責任にならないようにする働きをしていたのだ。言い換えれば、人々が生き甲斐を経験しないことを防ぎ、世界に対して無反応で無関係になることをも防いでいたということになる。

あの格言は、神とのつながりを直接に経験していない人のためにある「世俗の知恵」を現しているのだ。




バーモント州Lake Morey市
1992年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2013.05.28
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
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「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが明かす「得を収める秘訣」