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イエス・キリストが明かす

秘術:「恐れ」から「恐れなさ」へ


Raj Gathering質問者:あたしは恐れを手放したいのです。恐れは自信喪失や欠乏感など多くの仮面を着け得るということに気付いています。しかも欠乏が妄想にすぎないということも頭で理解できます。なのにあたしには、自分の切に望んでいるものをシャットアウトしている防壁があるらしいです。そういうわけで裕福、喜び、幸せがやって来ないし、伴侶となる彼氏も現れません。

この状態を引き起こす望ましくない態度や信念を手放したいのですが、そのために具体的な助けを願いたいのです。そしてこの精神的な防壁がなぜあたしにあるのか解明して頂きたければと思います。

ラージュ(=イエス・キリスト):言っておくけど、恐れそのものに焦点を合わせると、その恐れを手放すことが難しくなる。また恐れを手放そうとすれば、その恐れが焦点となってしまうものだ。

だから「恐れ」を手放そうとすることを止め、その変わりに「恐れなさ」を受け入れるべきだ。




「恐れなさ」は、やることではないので努力ではない。要するに無責任でほったらかすようになる習慣だ。「恐れ」は「何かをやっている」ということならば、「恐れなさ」は、逆に「何かをやっている」ということのないことだ。

「恐れ」を「恐れなさ」に置き換えるのには、先ず自分の体に注意を払うことだ。恐れにふけっている最中には、体が緊張していて、呼吸が浅いということに気づくはずだ。そこで少し時間を割いて体を動かすのだ。肩や胴、足など体中のすべての筋肉を働かすと、緊張がほぐれるはずだ。

そうすれば緊張を維持していないことが分かる。

このリラックス状態では、呼吸に注意を払う。それで呼吸をもっと深くし、呼吸数を下げると、恐怖感が大分減少するものだと気づくはずだ。

イエス・キリストの引用


ちなみに、体がなければ、感情的反応が経験できないということを知っていたか。あなたは、眠らないで、体が麻酔されたとすれば、感情的反応を経験することが絶対的に不可能だと分かるよ。穏やかな知性で反応することができるということも分かる。

感情的反応とは何だろうか。

それは「自分」として認識されるプライベートでちっぽけなエゴが、体を利用することによって、作り出して維持しているものだ。で、この感覚的反応を下げるのには、呼吸数を下げて、呼吸をもっと深くして体の緊張をほぐす時間を取るのだ。

これで感情的反応に必要な燃料が無くなり、より一層の穏やかさを経験することになる。

あなたは、反応的でないとき、通常の知性が容易に経験できるということを知っているだろう。穏やかさを経験したいだろう。だから心の中で、穏やかさの経験を意識的に選択すのだ。そうしたらその選択は、あなたが恐れの縄張りの外側へと出る手助けになる。

このやり方では「恐れ」を相手にしていなかったことが分かるだろう。「恐れなさ」を選択することが注目の対象だ。これでは恐れのすべての現れとの係わりが薄くなってくる。




自分は依然として自分の体を持っている。けれど新たなありがたみを感じながら持っている。というのは体の穏やかさ、すなわち体のリラックスした状態のおかげで、行われていることを理性的に対応できるということが分かる。

自分の体を超越するのではない。

反応を止めさせようと、体を張り詰めさせるのでもない。するべきことはやっていたことを減らすことだ。要するに、恐れにふけっている間に、いろいろとやっているが、その「やっていること」を減らすのだ。

「恐れ」も、「穏やかさ」も、「内的葛藤」も、それぞれ選択肢の一つだ。「恐れ」や「内的葛藤」も選択肢になった理由は、それらによる反応を体が支持し裏付けているように見えることだ。その上、反応状態を維持することが論理的にもっともらしいことだ。

「自分がむしゃくしゃ、びくびく、おどおどしていなければ、状況が分かっていない」とかいうことがよく言われている。これは反応状態がもっともだという主張の一例だ。びくびくしていないことは、自分が現実離れしている証拠だという暗示になっている。

イエス・キリストの引用


しかし、わたしが言うのは、びくびくしていること、また葛藤を経験していることは、本当の現実から離れている証拠だということだ。

恐れがもっともだという思い込みを直す解決は、「穏やかさ」を選択し、穏やかさの中へと移動することだ。この静けさは、ほどかれる状態、つまり行いのない状態だ。この状態では、状況の解決となる明快さを経験することが可能になる。

反応状態で体に与えられる感覚データを重んじてはならない。

エゴは恐れが生存するための重要な働きだと言い張っている。みぞおちの圧迫感と体中の緊張は、潜んでいる実際の危険が直観力に気付かれている警報だから、要注意を促している。

しかし、わたしが言うには、目覚めている最中には、高い所で働く人がもつような、「知性に基づく非理性」を採用すべきだということだ。




昔は消防を行うとびの者や舟のマストや帆を繕う水夫など高い所で働く人は、落ちる訓練を受けていた。万が一、高い所から落ちてしまった場合は、身を引き締めることが即時反応だけど、リラックスしていれば、傷害がもっと軽くなる。そのために地面につく直前にリラックスするという、知性に基づく非理性的な行為の訓練が必要だった。

ここでは、「知性に基づく非理性的な行為」について語っている。要するに、「恐れなさ」を選択し、エゴの習い性となった思考でいう絶対必要なことのまるきり逆なことをやるという行為だ。

あなたは、神の知性の表現であれば、どのような状況においても、恐れをもっともだと理屈をつけることは、まったくばかげている。「恐れ」というのが選択肢の一つだけだと覚えておけば、違う選択肢を選ぶことが可能だと分かる。

初段では、練習の対象を、恐れが本格的に呼び起こされることでなく、ちょっとした不安を感じることにすればいい。ちょっとした不安なこと、自信のないちょっとしたことで初めなさい。

イエス・キリストの引用


不安というのは、エゴの活力にすぎないもので、認めるべきでない矛盾だ。だから不安を認めるな。無責任になれ。不安の原因らしい問題があっても、思い切ってすがすがしい気分になれ。

ところで、ポール君《P・タトル氏》は、思い切って「恐れなさ」と「無防備」を選択し、思い切って危険がないと見なしている。それが今日好ましいことが起こった唯一の理由だ。そこでポール君は、心の平安で、存在の平安で、あっさりと、今という瞬間を流れている適切性そのものになることができる。

先ほど欲求不満を表した質問があったよね。あの質問は、ポール君に対する個人攻撃として、またはポール君の信頼性を傷つけるものとして解釈することも可能だった。それはポール君にとって邪魔になり、ポール君の気を悪くし、自己防衛的な構えを取らせてもおかしくないほどのものだった。

しかし、そうなったら集会を今のように続けられなかった。理屈をつけたとすれば、自己防衛的な構えが適切だという結論に至った。やはり同じような質問がまた飛んできたら、自分の不利になり、穏やかさが崩れてしまうということも考えられるのだった。




あなたは実際に天国に居るということを理解しなければならない。そして天国の現実性をも、自分の傷つけられ得ない本質をもあらわにする解決もあるということも理解しなければならない。

その上、恐れをもっともらしくする論理の正体は、無知による信念のもたらしたものであり、生存本能のもたらしたものではない。それも理解しなければならない。

だからわたしは、思い切って「恐れなさ」を行うよう、諸君の一人一人に勧める。そうすれば、恐れにふけるために費やすほどの努力を費やさなくてもいい。

恐れはエネルギーをいよいよ費やすように要求しているようだ。でも思い切ってリラックスして穏やかさの中へと沈めば、恐れがないということに気付く。恐れを呼び起こす状況がまだあるにしても、知性が活用される自然の能力を帯びながら、その状況を安らぎの中から見つめることができる。

これで自分の知性の表現は、強迫されたものでもなければ、知性の欠けたものでもない。

イエス・キリストの引用


自分は実相の現実の只中にいる。だから森羅万象は、真に自分の味方で、自分の充足、自分の得、自分の恐れなさ、自分の穏やかさを現そうとしているものだ。

手綱を手放し、エゴの観点で非理性的になり、行動をとる前に「穏やかさ」を選択する意思があれば、どうなるだろう。それは自分の神性も、ほかの皆にとっての自分の価値も現れてくる。しかも、自分の充足が経験できるようになるのはほかの皆のお陰だと分かり、自分にとってほかの皆の必要性も分かってくる。そのことで、無防備になるための意欲が更に増大するのだ。

この話はまだ続けられるがこれで要点が伝わったので、お持ちの昼食時間にしよう。




カリフォルニア州カーメル村
1990年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
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「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが明かす「秘術:『恐れ』から『恐れなさ』へ」