イエス・キリスト   ACIMとは   目次 
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イエス・キリストが答える

「至福に付いて行くことで、
生活ニーズが不思議に
満たされるのは、本当?」

Raj Gathering
質問者:最近僕は清水の舞台から飛び降りる思いでハイテク業界での長いキャリアを去りました。そこでそのキャリアで得た安心感という幻想を手放しました。この数ヶ月間、ジョセフ・キャンベルの提唱した「自分の至福に付いて行く」ということを実行しています。毎朝起きて、うらうらした日差しで油絵を描いています。

始めたばかりのころは、今のように続けるとは思いも寄りませんでした。計画してやったのではないので、エゴの起こしたことではなく、きっと心の奥で起こされていると気付きました。

この活動がとても興に入っている反面、胸が騒いでなりません。「おれはどこに向かっているんだ。何をやっているんだ。金を費やしているのに収入はない」とです。

これも人生の自然な展開だと分かっています。にもかかわらず、恐れがなくなりません。細かい指導も役に立つでしょうけど、実際に求めているのは万事が無事に終わるという確信でしょう。《質問の要約》

ラージュ(=イエス・キリスト):至福というものは、生活とは無関係だと一般に思い込まれている。ゆえに至福に付いて行けば、不安定になり、社会で活動できなくなり、社会に対して無関係になると思われている。

これは真実に対して甚だしい思い違いだ。

至福はバランスの良くとれているものだと知れ。至福は霊魂の妨げられていない、表現への運動だ。この「霊魂」というものは、あなたの、また他人の個人的な魂ではく、神の存在だ。




すなわちわたしが先ほど述べたように、あなたまたは他人だと認識される存在を構成している神の存在だ。言い替えれば、この霊魂は神が自己表現しているところのものだ。

よって自分の至福に付いて行くことは、神を経験することだ。そういうわけで至福として経験されるものだ。

神の自己表現は不充分でもなく、不完全でもない。神は自己を完全に表現している。従って、あなたが自分の至福に付いて行くことでは、魂だけでなく、腹も財布も満たされるものだ。神はあなたの生活に結び付いているからだ。

神の完全な自己表現は、人間のニーズを漏れなく満たすものとして現れるものだ。最小限にではなく、いっぱいに。けちけちにではなく、たっぷりに。

充満した充足だ。

充足は生活上の経験でありながら、内部の経験でもある。だから、自分の至福に付いて行くなら、すなわち自分の至福の中に沈むように勇を鼓してコントロールを手放すなら、あらゆる局面で、あらゆる面で、至福を充足の釣り合った顕現と運動として受け入れるといい。




至福を生活と無関係なものとしてではなく、至福を全面的に関係している、充満するものとして受け入れたまえ。

自分の至福に付いて行くことは、今ここでの充足をあらゆる面で受け入れることだ。それは食費や家賃、交通費などニーズの代金を支払うために金を持つという意味だ。

至福は生活に関係していない喜びではない。また生活に関係していない雅やかな芸術活動でもない。下手をして至福をそのように概念化すれば、充足をもたらす好機を見逃す可能性が高い。

そうしないように勧めているのだ。

至福の現われの展開を見るために好奇心を持つべきだ。自分の取り組んでいる芸術作品の展開を見るために、既に好奇心を持っているじゃないか。ならば、自分の財布とお腹と住居との関連での展開を見るためにも、同じほどの好奇心を持ちたまえ。

これは皆、父の創造の運動だ。あなたはこの運動に素直に屈服すべき、受け入れるべき、求めるべきだ。じりじりしながらではなく、無理やりさせようとするのでもなく、屈服するようにだ。

簡単に言えば、「自分の至福に付いて行きたまえ」

この句を念頭に置け。

それに「至福は生活に結び付いているものだ」というこの新しい句を付け加えたまえ。

生活に結び付いているということで、至福は低下することは決してない。かえって増大するものだ。これを心に留めておきたまえ。

質問者:それで僕が芸術家として必ず経済的に成功すると断言していますか。

ラージュ:わたしが今述べたやり方で至福に付いて行くなら、あなたは必ず充足を体験すると断言するよ。芸術家として成功してもしなくてもだ。「成功した芸術家」というのは概念だ。概念を追いかけるべきじゃない。

自分の至福に付いて行くことは、あなたは痛くも痒くもなく自分として存在することだ。言い替えれば表を繕っていないままでの自分の自己表現を最優先させることだ。

そうすれば充足の証拠も生じてくるものだ。

あなたの求めるべきことは、「成功した芸術家」でもない。また「財産を相続したので成功する必要がない偉い芸術家」でもない。また考えられるほかの概念でもない。

概念を求めるんじゃないぞ。

求めるべきことは、表を繕っていないままでの自分の自己表現だ。そして至福だ。そして至福の生活との結び付きだ。

それでは、充足が積極的に否定されている状態を脱出することになる。そうしたら宇宙に任せて、自分の充足が自然に生じてくるようにすればいい。




概念または役割を求めようとする瞬間には、どうなるか、言っておこう。

充足を生じさせる面では、神の運動である宇宙に制限を付けてしまうようなことになる。実際には、神に制限を付けることはあり得ないが、あなたの知覚には制限を付けてしまうことになる。神の存在という運動である充足の運動に対する知覚にね。

だから、どの瞬間でも、表を繕っていないで自分の至福に付いて行っている、あなたのたまたまの姿でいればいい。

概念を捨てちまえ。

充足が生じてくる光景を見届けろ。存在という運動と限りない創造性、すなわち宇宙の限りない創造性に目を見張れるようになれ。

本当に好ましいことは、あなたが芸術家として金銭的に必ず成功するという確信による安心感ではない。本当に好ましいことは、自分自身に忠実になることが有益だという確信だ。自分自身に忠実になったら、その後のことはすべてうまく収まるからだ。

自分の至福に付いて行き、充足が展開するようになることを見届けるべく、自分自身に忠実になることが有益だとわたしは断言する。

この充足は、あなたが個人的な責任を負っていることで生じてくるものではない。個人的な責任というものはエゴの範囲内にある発想だ。責任を負うのは、エゴの範囲内にいるあなたではなく、あなたの実相存在という運動の方なのだ。

幸いなことに、あなたは自分の実相存在という運動をコントロールすることができない。




バーモント州モントピーリア市
1989年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
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「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが答える「至福に付いて行くことで、生活ニーズが不思議に満たされるのは、本当?」