イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など
イエス・キリスト   ACIMとは   目次
イエス・キリストが明かす

正真正銘の成功を引き起こす
秘中の秘

(確実性例外なく100%)


質問者:僕は迷っています。自分の心を世界に表現したい。そしてこれで喜びに満ちた生き方を送りたい。

一方、生計を立てなければ食っていけないばかりか、社会に何の役にも立たないじゃないですか。自分の精力をどこに注げばいいでしょうか。そして自分の才能と能力をどうやって活用すればいいでしょうか、具体的に。

ラージュ(イエス・キリスト):この噴水を思い描いてください。水がごぼごぼと噴き上げ、水かさがぐんぐん増し、やがて水がざぶんざぶんとみなぎるところになっている。いいですか。

では、この水はそれ自身の流れる方向を自分で決める意志があるとしましょう、こんな感じで。

こっち側でみなぎっていいかな。下方にある地面がちゃんとおれを受け入れてくれるかな。

いや、だめだな。地面は冷たそうで、がっちんがっちんと岩だらけだ。妥協しそうもねえ。ここに降りたくねえな。反対側を見よう。

ではこっち側にちょこっとだけこぼれてみよう、びゅううううっ、ばしゃーっ。



わぁ、すげぇ、こっち側では土地がふかふかして肥えている。草の根より深く土壌に染み込める。これでかなり充実した人生が送れそう。よーし、ここにする、とです。

ばかげた話だな。でもそれはあなたの気の持ち方を描いています。

実際には、噴水というものはそのように行動するわけがない。実物の噴水はみなぎると、どこに降りようと、またどのように受け入れられようと屁とも思わない。ただどーどーと流れ落ち、ざんぶりと至る所をすっぽり水浸しにするものですね。

それでコンクリートも大理石も、ありとあらゆる物が祝福される。水を吸収しないにしても、水によって冷却されるんです。

世間が自分を快く受け入れてくれるかな。また自分の価値を認めてくれるかな。それを確かめるために、世間の意向を打診して進めば、茨の道を歩むことになる。

人々は元々神の完全無欠な現れだが、あなたの世界ではそうではない。

イエス・キリストの引用

あなたの世界では人々は自分たちの生得権という天与の権利を知らない。しかも心の平安を失っている。しかも自分たちの中でも折り合いが悪い。さらには、自分たちのことが能力不足だという歪みの中に閉じ込められている。

よって互いの実相を互いにろくに経験できない。

それがあなたの世界ですよ。この世界は、人々がエゴという卑小なもののぎゃーぎゃーぎゃーぎゃー騒ぐ烏合の衆に化けた無明世界なんです。

あなたはそんなものの意向を打診してどうするわけ。

その人々は歪めたレンズを通して見ているんだから、あなたのたまものを正しく評価するわけがない。

自分の心を表現していいか確かめるために、この世界からデータを収集する限り、あなたは不正直になっている。なぜなら何らかの形で、人々のエゴに応じることになるからだ。

そうすれば自分もこのエゴ祭りにエゴとして参加していて、何の役にも立っていない。ただこの愚の骨頂に一枚噛んでいるだけです。

じゃどうすればいい。

何よりも先に、まず自分の本当の意識を見つけることです。人々のほしいもの、またはほしいと思っているらしいものはどうでもいい。そういうのを気にかけなくてもいい。

イエス・キリストの引用

自分の本当の意識と触れ合うために、勇を鼓し、心が静まるようにすることだ。なぜならこの触れ合いでは、自分の価値と良さを経験するからだ。

ここでは自然に、自分の本当の意識と触れ合う素晴らしさを感ぜざるを得ない。この素晴らしさは愛というものですね。これこそ、人々に与える価値のある唯一のたまものですよ。

あなたの平安はあなたを構成する愛で永久不変に満たされている。だから自分の平安を経験していれば、自分の愛を経験しているのです。

この愛は決まって拡大するものだ。

噴水のダーッダーッとあふれる水が周辺をすっぽり覆うようにね、是が非でも。これで皆が恵まれるものだ。これを引き止めようとしても、判断を下そうとしても、無駄骨を折るだけだ。止まらない笑いは止められないものですからね。

そういうわけで、世間の要求に応じようと勤めることは賢明ではない。

人生ゲーム

その要求に応じ、おれ一花咲かせたぜとか言えても、それはただ人生の物まねをした「人生ゲーム」というボードゲームで成功したようなものにすぎない。実際の人生で成功したわけではないですね。

じゃ本当の成功はどこからくるわけ?

本当の成功を引き起こすカギは、自分の本当の意識を知ることを最優先の課題にすることなんです。これは自分の意識の完全な状態から発せられる喜びを体験するためです。

次にやることは、そこから生じてくる、意のままにならないものを世界と分かち合うことです、思い切ってね。

彫刻の石材にのみをカッと打ち込むような意気込みでやればいい。微塵や破片が飛び散るに任せてもいい。

これはね、正直な自己表現となるんですよ。エゴの表現ではなく、自分の本質的な存在運動の表現というわけですね。

イエス・キリストの引用

自分の心を正直に表現するのには、度胸が必要ではない。必要なのは平安なのです。

平安とは、不安がないということだけでなく、愛があるということもだ。自分が平安でいれば、そして恐れずにその平安を活動の拠点にすれば、周りの人たちは皆、安全を感じる。すると彼らの警戒心が弱まる。なのでそれぞれのエゴがそれほど活性されない。

こうなったら、あなたの与えるものは、どのように表現されても、彼らにとっては好機になる。というのは、あなたの世界にいる人々はあなたに心を許してくれる。その上自分たちのことをエゴだという主張を手放しかねないわけです。



職業が経理担当者だろうが、芸術家だろうが、ソーシアルワーカーだろうが、主婦だろうが、配管工だろうが、人は日常的にほかの人たちと接するものじゃないか。自分の本当の意識、すなわち自分の存在という運動を拠点にして活動する人は、自然に、その接する人たちを祝福するものです。

だから肝心なのは職業の選択ではない。肝心なのは別の選択です。

別の選択というのは、自分のエゴか自分の本当の意識か、この二者択一なんです。

自分のエゴを表現し、人生ゲームみたいな妄想世界でどうにか成功したとしても、それは本当の成功になるわけがないんです。

本当の成功となる選択とは、自分が静かになり、自分の存在の奥底にある本質の中に沈むということです。これでは、自分が何をやっていようと、自分の完全性が感じられ、自分を構成する愛の流れが解き放たれ、この愛が周囲にだーっだーっと広がるからです。

あなたの愛、すなわちあなたを構成する愛は、一旦あなたに体験されるようになったら、自らの方向へ流れるものです、噴水の水のように。

噴水の水はあらゆる種類の地形に行き当たるのに、全然反抗はしない。

ただ障害物の周囲をすらすらと流れていく。



妨げられても不平を鳴らしたりはしない。ただみなぎって、だーっだーっと障害物の上を流れるだけだ。

ぶつぶつ言わない。気落ちもしない。

あなたの愛も同じように流れるものです。流れながら向かい合う人たちのエゴをかき立てないように、そして彼らとの関係がより円満になるように、すらすらとどんぴしゃりの方法を見出すものです。

だからあなたは行き詰まったりはしない。

かえって活動できる何通りかの道が開けるようになる、一歩ごとにね。

「わたしは会計士なので遠慮させていただくわ、あのようなことは、ちょっと」というような職業的なこだわりも無くなる。ただそのときの流れに掉さすだけだ、そしてその次のときの流れにも。

これで自分が実を挙げているということに気づく。その上あなたのことは成功者として世に入れられるはずです。

でもあなたが実際にやっているのは、不安のない心境から離れないようにしているだけです。

それじゃ、自分の存在理由が無くならないのかい。

いえ、そんなことは絶対にない。かえって存在理由がいっそう鮮やかになってくるのです。何をやればいいか、またいつやればいいか、あなたは知るようになるのです。



この奥義を理解することは非常に重要。

いとわずに噴水から流れ出す水のようになれ。世間がどのように受け入れてくれるか考えなくてもいい。

あなたも周りにいる人たちも共に妄想に陥っているので、その人たちの外見として知覚されるものは実相ではない。だからその外見を自分の行動のよりどころにしてはならない。

自分の完全性に対する知覚は完璧なわけがないが、知覚できる程度でいいから、自分の行動のよりどころを自分の完全性にしろ。

のみをカッと打ち込めよ、微塵や破片が飛び散るに任せて。

あのね、地球の平和は望まれているものじゃないですか、誰にも彼にも。しかし人生ゲームよりも心の平和を重視する人々が現れなければ、地球の平和は現れるはずがない。

イエス・キリストの引用

あなたからの最高のたまものはあなたの心の平和ですよ。それこそあなたの職業なんです。ただの・・・《録音テープの途切れ》


質問者:自分の平安の中に沈み、そのままで行動しろというお教えなんですけどね、あれを実践しようと本腰を入れたことがあります。ところが決まって、短い間でしかできなくてさ、骨折り損のくたびれ儲けに終わっちゃったんですよ。

ラージュ(イエス・キリスト):自分の平安の中にどっかりと座り込み、いつまでもどっぷりつかることは、しょっぱなからは、できるようなものではないですよ。

最初は、ほんの短い間になるのが当然。大体1日につき10分くらいが普通ですよ。でも時間がいくら短くても、自分の平安を日常的に求め続けてください。そうしたら平安の経験が蓄積するのです。

これで自分の完全性の感じは念頭に置かれ、その日の成り行きによってまるっきりかき消されない。

いいか、アプローチは現実的でなければならない。だから最初は、自分の平安を日常的に経験しなければならない。

一回につき10分か20分だけでも、これが蓄積すればするほどいい。そうすればいつでも、目が回る忙しさの真っ最中にも、その平安のフィーリングを生々しく思い出せるのです。

生々しくなるほど、平安のほうに近寄ることがやりやすくなる。しかも気分が以前ほどむしゃくしゃにならなくなる。



さらには、極度のストレスを感じているときにも、自分の平安に近寄るために、一息入れることができるようになるのです。

自分の無明世界にのまれ、不安にふけってしまえば何も始まらない。だから是が非でも自分の平安を求め続けなければならないのです。自分の平安というのは、自分の存在の中心部のことなんです。

いつもちょこっとした時間だけでも、自分の平安を経験してください。この経験が蓄積すればするほど、全体としては、不安がなくなるものです。

「おれ、こんなにじりじりしなくてもいい。肩の力が抜けられる。落ち着くことが実際にできるんだ」ということに気付きやすくなる。気付いたら、落ち着くことが選べられるようになるわけです。

だから、会議に遅刻しないように高速道路を時速100キロで車をぶっ飛ばしているところでは交通の流れが、とろとろと、遅く、なって、きた、ようなときも、へっちゃらだ。悠揚迫らず。

というわけで人生は戦争ではない。世界に対して、または自分の苛立たしい気持ちに対して、戦いを交えていない限りは、くたびれてしまうことはない。



だからわたしが語っているのは戦いの話ではない。決断の話です。心の平安に専念する意志を持ち、そのように専念すると決断するということだ。

で、この心の平安に専念する意志とはどういうことだろう。それは、人生ゲームみたいな妄想よりも、苛立たしい気持ちよりも、不安よりも、心の平安のほうを望むということです。

だからいらいらが始まったと気づく途端に、心の平安のほうに近寄ることを選択するといい。または、毎日の瞑想時間にも、(おの)部屋(へや)《=人々から離れた所(マタイ伝6:6)》に入って故意に静まるといい。

心の平安を重んじれば重んじるほど、それを意識的に望むようになるものだ。めちゃくちゃ忙しいときにも望むようになるはずだ。しかも矢継ぎ早の要求に対しても、戦いたくなくなる。

皆の狂気じみたきりきり舞いの有様に対しても、戦いたくなくなる。

なぜ?あなたは戦わないことをただ選択するだけというわけです。す〜っ、は〜っと一息入れることを選択するわけです。そうすれば「自分の平安の中に沈んだままでこれが処理できる」ということに気づくわけです。

それから平静に自分のベストを尽くすだけだ。

あなたがくたびれちゃったのは、自分が戦っていたせいだったよ。無明世界の条件を呑んで、その要求に応じて対戦すれば、くたびれちゃうのが当然。

平安の中にとどまることは戦いではなく、決断なんです。自分の内側でそーっと起こる単純な決断なのです。

何を決断するというのは、不安よりも、そしてプレッシャーとして感じられるものよりも、平安のほうを重んじるということです。

相手のない喧嘩はできぬというじゃないか。骨折り損のくたびれもうけがいやなら、応戦するなよ。



ニューヨーク州ベア・マウンテン州立公園
1986年3月集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2013.06.26
英語原文
目次
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K・ヤマダ訳
A Course In Miracles
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acim.jp


「わたしはクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
イエス・キリストが明かす、正真正銘の成功を引き起こす秘中の秘(確実性例外なく100%)