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奇跡の50原理(その1)


ACIM Study Group
ページ位置の確認: T1:1:1〜14
(ACIMテキストブック 第1章、第1部、第1〜14節)


ラージュ(イエス・キリスト):先ず、ACIM(奇跡講座/奇跡のコース)で言う「奇跡」という用語の意味をはっきりさせておきたい。奇跡というものは、自分の経験を霊力でコントロールすることによって状況を是正するということではありません。

奇跡は不可思議な行為そのものではない。水の上を歩くとか、死者をよみがえらせるとか、病人をぱっと癒すとかいうような現象が奇跡として見えてくる可能性が高い。といっても奇跡を構成するのはそんな行為ではない。

奇跡というものは、意識中の移りなのです。

あなたたちは自分たち同士で勝手に数々の定義を決定したわけだが、それらの定義を手放さなければならない。さらには、思い込みというものをすべて心から払い出さなければならない。

そうしたら神または聖霊またはガイド《=守護神》のほうに意識を向けることだ。そうしたら、自分が経験しているところの事柄、またはある状況の事柄の真相が実際何なのかと尋ねることだ。そうしたら自分の内側に深く耳を傾け、真実の答えによる明瞭さをを受け入れることだ。

そうすれば自分の内側では、知覚の移りがすうっと起こるのです。

知覚が移るにつれて、自分の経験も自然に移る。気づけば、病気やけがなどがなおったり、愛の脈がなくなった人間関係に愛が戻ってきたりしているわけです。



では、第1章を始めましょう。初めには「奇跡の原理」を見てみましょう。

心に留めておきたいのは、奇跡というものは意識中の移りだということです。この「意識」とは、あなたの意識のことですね。

神の観点を経験することが望ましい。しかしあなたたちは普段それを遮断している。けど、遮断するのをやめれば、意識中の移りが起こる。意識中の移りは故意に起こることもあれば、自然に起こることもある。

「故意に起こる」といえば、瞑想の結果として起こるということです。要するに、自分の最良のアイデアや意見などを故意に無視し、故意に明瞭さのほうに聞き耳を立てると起こるという意味です。

そして「自然に起こる」といえば、ちょっと気を許した隙に、すなわち遮断していない隙に起こるという意味です。

こうしたときにひらめき、すなわち洞察がふっと思い浮かぶ。つまり、ふっと知覚が移る。これで自分の見解が一変してくる。この知覚の移りこそ奇跡というものなんです。

では、奇跡の原理1で始めましょう。


ACIMの引用
奇跡には難易度がない。一つの奇跡は他より難しいとか大きいとかいうことはない。どれも同じだ。愛の表現はどれも極大だからだ。

奇跡の原理1 (ACIM,T1:1:1:1-4)

ラージュ(イエス・キリスト):面白いな。奇跡は知覚の移りです。この知覚の移りによって、自分の直面する事柄の真相がぱっと見えてくるのです。

その真相が見えてきているところは、愛が表現されてきているところだ。愛はいつも極大だ。愛が抑制されることはありえないからだ。

奇跡はぴんとくるひらめきです。

自分の内部で、「あ、そうか!」と喜んで叫ぶということだ。この「あ、そうか!」はぴんとくる明瞭さに対する反応だ。その明瞭さでは、あなたの世界にある何かの神性がぱっと目に見えてくる。その神性が見えてくると、その物に対するあなたの知覚が一変するのです。

しかもその物が神とつながっているということが明らかになる。そうなったらその場所には、絶対的な関係があるということが明々白々になる。その上、神の表現としてでなければその物が存在し得ないので、その物が神性だということがはっきりわかるのです。


ACIMの引用
奇跡そのものは重要ではない。重要なのは奇跡の源であり、その源は評価をはるかに超越したものだ。

奇跡の原理2 (ACIM,T1:1:2:1,2)

ラージュ(イエス・キリスト):言い換えれば、自分の視覚が変わり、その変わった視覚によって自分の世界がばんと変わる。それでその変わった事柄を体験するのです。しかし重要なのはその変わった事柄ではない。

ラザロが墓から出てきたこと《ヨハネ伝11:38-44参照》はどうでもよかったのだ。

じゃ、重要なところは何だったんでしょう。

世の人々には、ラザロが死んだように見えた。しかし実相からみれば、ラザロはずっと生きていたのだ。

そこでは、愛によってその実相の様子が世の人々の目に見えてきた。人々はそれを隠す錯覚を心中に抱いていたが、愛はその事実をすーっと明るみに出したら、だれもそれを否定できなくなったのだ。

それで神の存在が実証された。

しかもラザロが神から離れていないということが実証された。

それで死という幻想は群集の心から消えたので、群集の視覚から消えた。それでラザロがぴんぴんしている状態で見えてきたが、その現象を起こしたのは、神へ、そしてラザロへのわたしの愛だけだったということも実証された。

それが重要なところだったんです。


ACIMの引用
奇跡は愛の表現として自然に起こる。真の奇跡はそれを喚起する愛だ。この意味では、愛から生じるものはすべて奇跡だ。

奇跡の原理3 (ACIM,T1:1:3:1-3)

ラージュ(イエス・キリスト):まさにその通りです。何から何までに対して、あなたたちは自分たち同士で決定した定義を抱いている。しかしわたしが何度も何度も言っているように、それらの定義のもとで、互いに心を合わせることが望ましくない。なぜと思いますか?

説明しましょう。

神からあなたたちへ、言わば「コミュニケーション」が絶えなく行われている。しかし、あなたたちは自分たち同士で決定した定義に憂き身をやつしていることで、このコミュニケーションを切断してしまっている。そのために、寝ても覚めてもこのコミュニケーションを無視している状態に陥っている。

このコミュニケーションは愛のコミュニケーションだ。

なぜなら神は愛そのものだからだ。この愛は、あなたに抵抗されなければ、また無視されなければ、あなたを満たし、あなたを祝福するものだ。

あなたの視覚を一変させ、あなたの世界がもっと天国らしく見えてくる。なぜならそれがずっと天国だったからだ。

ポール君《=P・タトル氏》の場合を例としてみてみましよう。

一から十までの反応をわたしに任せてくれるように、わたしはポール君にいつも勧めている。そうなれば、ポール君が常にわたしと一緒だということになる。その上、集いの時だけでなく、奇跡がいつも起こるようになる。さらに、集いと集いとの間にも、彼はわたしから離れているという不満で苦しまなくなる。



といっても、主な理由は、彼にとっていい訓練になるということだ。正常に戻るための訓練だ。この「正常」というのは実相からみた正常のことだ。わたしと常に一緒になれば自分の実相をもっと早く思い出すことになるということだ。

つまり、目が覚めるわけだ。

あなたたち一人一人もそうです。自分のガイドをいつも受け入れておくと、もっと早く目が覚めますよ。

あなたたちの勝手に決定した定義で縛られているままでは、自分たちの存在が無駄になっています。しかも、直面している物事の喜びを逃してしまっています。自分が天国のただ中にいるのに、天国の喜びをも逃してしまっています。

それだけではありません。

あなたのことは表現されている神の臨在そのものです。永遠にです。途中でやめることはない。だからあなたは完全な存在です。なのにその完全性を経験することができない。だけど、自分のガイドと一緒になっていれば、自分はことごとく愛として存在するのです。

そうなったら、起こりうることは、ただただ奇跡ばかりです。


ACIMの引用
奇跡は例外なく生命を意味し、生命を与えるのは神だ。神の声は非常に具体的に導いてくださる。知る必要のあることが漏れなく告げられる。

奇跡の原理4 (ACIM,T1:1:4:1-3)

※ ナチュラルスピリット社の邦訳版では「『神の声』は、あなたを非常に具体的に導いてくださるでしょう(oooo)。知る必要のあることのすべてがあなたに告げられるでしょう(oooo)」となっています。「でしょう」が2ヶ所にも付けてあります。ところが英語原文にはそんな不確実性のニュアンスは全くありません。
――K・ヤマダ


ラージュ(イエス・キリスト):奇跡は例外なく生命を意味します。

生命みたいなものではなく、生命の50パーセントでもなく、生命のかけらでもなく、生命の苦汁でもない。言っているのは、生命そのものなんです。

「奇跡は例外なく生命を意味し、生命を与えるのは神だ」とは、どういう意味なんでしょう。

先ほどわたしが述べたが、意識中の移りが起こり、何かの真相を見抜けば、その物が神から分離し得ないということが分かる。すなわち、その物の神性を認識し、知り、体験するということだ。

「奇跡は例外なく生命を意味し、生命を与えるのは神だ」とは、そういうことです。

ちなみに「神性」といえば、ただすごくすばらしいという程度のものではない。畏敬の念を抱かせるものだという意味です。

「神の声は非常に具体的に導いてくださる」とあるが、わたしがポール君を導いていることはその例の一つです。

「知る必要のあることが漏れなく告げられるのだ」とある。こりゃ大した支えじゃないか。おっとうと確かめないでいつも自分だけで断を下すことで、とんだ犠牲を払っていますよ。


ACIMの引用
奇跡は習慣であり、意図なしで行われるべきだ。意識的にコントロールされるべきものではない。意識的に選ばれた奇跡は誤った方向へ導かれることがある。

奇跡の原理5 (ACIM,T1:1:5:1-3)

ラージュ(イエス・キリスト):その通りです。

人は自分が知るべきことが分からないし、実際に何に取り組むべきかが分からないものだ。だから知るべきことを知っていると思い込んではならない。「ここで何を知る必要がありますか」と神、またはガイド、または聖霊に常に尋ねるべきです。

人は神の見方を知るために、自分の内面で、抵抗しないで真剣に神のほうに耳を傾けるべきだ。自分の意識の中で何が移るのかを知るすべがない。

でも知るすべがないというのは、実は素晴らしいことです。

ところが、自分で物事をコントロールしているという感覚を楽しみ、またコントロールを握ることに対する誇りを楽しみ、その楽しみに慣れてきた人がいる。そんな人にとっては、手を出さないで、移りがどこにでも自然に起こるようにすれば、何かが奪われたという感じになってしまう。

奇跡が起こったあとでは、「おれ様の手柄だったぜ」などと自慢することができないわけだ。

奇跡は、けっして人のコントロールによって起こるものではない。なぜなら意識中の移りが起こるのは、自分の習慣的な考え方の外側のほうに耳を傾け、父の御意(みこころ)に身を任せているときだけだからです。


ACIMの引用
奇跡は自然なものだ。奇跡が起こらないときは狂いが生じている。

奇跡の原理6 (ACIM,T1:1:6:1,2)

ラージュ(イエス・キリスト):まず第一に、奇跡というものは特別なものではない。しかも奇跡で人が特別な人になることはない。先ほど述べたように、奇跡とは、知覚の移り、すなわち意識中の移りということだ。奇跡は言わば自動的なものだ。人がその発生を妨害していないときに、計画によらないで自然に発生するものだ。

ただそれだけのことです。

奇跡が起こらないことについては、「狂いが生じている」とある。それは、奇跡が起こらない理由は、人は心を不自然な用途で使っているということだ。というのは、あなたは神から独立した立場で万物を勝手に認可しようと勤めているわけだ。

それは不自然ですね。

やるべきことは、神の存在という運動の事柄を快く観察するということだ。そうすれば、あなたは神の存在という運動の事柄に対する承認そのものになる。それによって神を讃えるのです。

それが神からの啓示を体験するということだ。そしてその体験によって、あなたには自分の真相が示されるのです。


ACIMの引用
奇跡はすべての人の権利だが、その前には浄化が必要。

奇跡の原理7 (ACIM,T1:1:7:1)

ラージュ(イエス・キリスト):浄化とは何ぞや。

あなたたちは自分を浄化するのには、何生涯を費やしてきたことか。また浄化し終わるまでは、またかなりの年月がかかりそうだと思い込んでいる人が実に多い。

なぜなら多くの精神哲学書がそう教えているからだ。しかもACIMのワークブックにも、なんと365日分のレッスンもある。だからそのように思い込んでしまうのもおかしくない。

「ああ、おれの浄化が完成するまで、少なくても365日がかかるのか。じゃ、2日目には奇跡を期待しないことにする。どうせ浄化がなければ何も始まらないんだから」と嘆く人もいる。

確かに浄化が必要。

しかし浄化とはどういう意味なんでしょう。浄化とは、自分の一部でないものを手放すという意味だ。ただそれだけだ。コップ一杯の水から異質を取り除けばその水は純粋になる。

単純なことじゃないですか。

同じく、自分自身、すなわち自分の心を浄化することも単純なことですよ。やることは、考えるのをやめ、聞くのを始めることだけだ。言い換えれば、権威者っぽい態度をやめ、自分の経験以外のところからの助けを求めることだけです。

よろしいですか。

浄化というのは、意識を神のほうに向けるときに起こることだ。そうすれば、自分の臨在は、自分のことについて自分が勝手に付けた定義から浄化されるのです。

それほど単純。



だから「その前には浄化が必要」という箇所を読んだらびびるな。「ああ、あたしには無理だわ」とか、「長くかかりそうじゃなぁ」とか嘆いちゃいかん。

「浄化」という一語にびびるな。

浄化とは、無用の長物を掃き捨てるという意味だ。それだけだ。役に立たないものを手放すということだ。

あなたは永遠に神の臨在だ。神の臨在として存在することをやめることはあり得ない。浄化とは、その経験の邪魔になっているものを手放すことだけだ。

ある意味で、あなたは神のことを神だと認識する能力そのものだ。神を認識したら、神を認めることだけでなく、神の存在という運動の進行中の有り様、すなわち天地創造を認めることになる。

いや、認めるばかりか、神を賛美するということになる。

それは感謝の行為なのだ。

感謝の行為?

なぜなら絶対の真実を見たら、真実が本当だと分かり、そのために自然に心が感謝でいっぱいになるからだ。

「本当」と言ったのは、「うそ」の対義語として言っているのではない。「まじりけがない」という意味で言っている。単純の真実は感謝を引き起こすわけだ。

その感謝の中で、あなたは神の存在という運動の事柄でいっぱいになる。それで目覚める。言い換えれば、森羅万象の実相が見えてくるわけだ。

平々凡々と思い込んでいた現象に目をやって、天国が目に映るわけだ。


ACIMの引用
奇跡は欠けている状態を補うので癒す。一時的に相手より多く持っている人によって、一時的に少なく持っているほうの人のために行われる。

奇跡の原理8 (ACIM,T1:1:8:1)

ラージュ(イエス・キリスト):面白いじゃないか。奇跡は一時的に相手より多く持っている人によって供給される。ただしその人はものを多く持っているとはいえ、奇跡を妨げるものを相手より少なく持っている。

なぜなら浄化があるからだ。

したがって自分のことに対する自分の付けた定義が薄くなっている。権威者っぽい態度も薄くなっている。単独で使役的な態度も薄くなっている。

そういうものが奇跡が起こるのを妨げる。

一方、一時的に少なく持っている人は、自分が思うより、奇跡を妨げるものを多く抱えている。その人は自分のことを物事の管理者だと思い込んでいるからだ。

わかりますか?

その人は、自分のことをまだ権威者だと思い込んでいる。そして状況をコントロールすべき者だと思い込んでいる。さらに、この世から身を守るべき者だと思い込んでいる。この世を分極化された世界、すなわち物質界だという妄想を見ているので、防御の用意ができていなければ、やっつけられてしまうと思い込んでいるからだ。



その人は自分についても世界についても数々の定義と概念をしょっている。そういうわけで、その人は神の存在という運動以外のものも持っている。といっても、そんなものは実在しないので実際に持っているわけではない。

よろしいですか。パラドックスなんです。

では、「奇跡は欠けている状態を補うので癒す。一時的に相手より多く持っている人によって、一時的に少なく持っているほうの人のために行われる」とある。

ただし「一時的に相手より多く持っている人」は、実在しない荷を相手より少なく持っている。そして「一時的に少なく持っているほうの人」は、実在しない荷を相手より多くしょっている。

よろしいですか。

その意味で、目覚めることは、自分のことが自分が思っていたより大分少ないという発見だ。自分のことだとてっきり思っていたすべては、実際は自分の一部ではないのだ。それを失うことは大きな損失のように見えても、無用の長物を掃き捨てるということだけだ。

覆われていない残りは?

余計な負担が取り除かれたあとで見えてくるのはキリストなのだ。

キリストというのは、あなたの実際の姿だ。

実相のあなただ。

潔白のあなただ。

清らかなあなただ。自分の清らかさは、自分がどんなことを考えたとしても汚れることはない。

脅かされることも、傷つくこともあり得ないあなただ。

全体から分離できないあなただ。

全体の外側にはあなたに敵対できるものがない。なぜなら全体の外側は存在しないからだ。

《Q&A省略》


ACIMの引用
奇跡は交換のようなものだ。

奇跡の原理9の冒頭 (ACIM,T1:1:9:1)
※ 直訳すれば、「奇跡は一種の交換である」となります。
――K・ヤマダ

ラージュ(イエス・キリスト):なんでだと思いますか。

《出席者との対話を省略》

ラージュ:その通りです。愛というものは、例外なく、関与だ。兄弟や姉妹・木・犬・猫・鳥など対象物にも実相がある。愛は、例外なく、対象物の実相を認識するということです。

なんで「交換」というのでしようか。

あなたが対象物の実相を認識する反面、対象物があなたの実相を認識するからだ。

よろしいですか。

愛は真空の中で起こり得ない。何の対象なしで、自分一人だけで、人は愛の臨在になれるわけがない。奇跡は関与なしで起こり得ない。愛情の対象がなければ、愛は表出するすべがない。そういうわけで、奇跡は交換のようなものだ。

「のようなもの」って?

そう、交換のようなものだ。なぜなら厳密に言えば交換ではないからだ。奇跡は、実際は、一体性を認識する現象だ。奇跡では、自分の兄弟《=男女を問わず自分以外の人》の中にも、あなたは自分のことを認識するわけだ。

《Q&A省略》


ACIMの引用
愛の表現はすべて、真の意味で常に奇跡的だが、それと同く、奇跡の交換は物理的な法則を引っ繰り返す。与える側にも、受け取る側にもさらに多くの愛をもたらす。

奇跡の原理9の残り部分 (ACIM,T1:1:9:2,3)

ラージュ(イエス・キリスト):奇跡の交換では、与えることで与える人は損しないのだ。そういうわけで、物理的な法則と呼ばれるものを引っ繰り返す。

《Q&A省略》

ラージュ:耳にすることがあるでしょう。

霊能者、または他の珍しい精神能力に恵まれている人が何かを与えれば自分の寿命がそれほど縮むという話を。なぁ?一体性・和合・恵みを現しているものが与えることによって枯渇してしまうということになるという話。

しかしそんなことはうそだ。

奇跡は例外なく、生命を意味するものだ。

枯渇という状態を意味しない。枯渇は生命の反対だからだ。

それを理解しなければならない。

物理的な法則では、ポール君があなたに1ドルをあげたとすれば、あなたの財産は1ドルで増え、彼のは1ドルで減る。また、彼は自分の車をあなたにあげた場合は、あなたのほうがその車を持っているが、彼はもう持っていない。

よろしいですか。

ところが奇跡は物理の本質に逆らうものだ。

《Q&A省略》


ACIMの引用
信念を引き起こすために奇跡を見世物として用いることは、奇跡の目的を誤解したものだ。

奇跡の原理10 (ACIM,T1:1:10:1)

ラージュ(イエス・キリスト):そう。いずれにせよ、望ましいものは信念ではないのだ。あなたたちは信念のせいで苦しんでいますよ。

あなたたちは世界が浮き世にすぎないと信じているんじゃないですか。

自分たちのことをただの人間だと信じているんじゃないですか。

肉体が必ずがたついて土になってしまうと信じているんじゃないですか。

そうした信念で自分自身を怖がらせ、または慰める。

しかしあなたたちの信念はどれも、目をそらせている。何から目をそらせているというと、実相世界の経験からだ。そして自分の実相の姿の経験からだ。さらに自分の兄弟・姉妹の実相の姿の経験からだ。

だからわたしはあなたたちに何かを信じさせるために歩き回って偉大な奇跡を起こしているのではない。そういうのは、一つの信念をもう一つのと取り替えるにすぎない。

信念はどうでもいい。

重要なのは経験なんだ。自分の中で、何とか信念をいくらかよそにしなければならない。そうしたら経験がやってくるはずだ。

《Q&A省略》


ACIMの引用
祈りは奇跡の媒体だ。祈りは創造されたものと創造主のコミュニケーションの手段だ。祈りを通して愛は受け取られ、奇跡を通して愛が表現される。

奇跡の原理11 (ACIM,T1:1:11:1-3)

ラージュ(イエス・キリスト):全くその通りです。祈りというのは、神に勝手な願いをかけるということではない。あなたは神が見せてくださる事柄で満たされたい。祈りとは、その事柄で満たされるように、神を歓迎するということなんです。

以前にも述べたように、本当の意味では、祈りは神に注文を付けるということではない。かえって神に「はい」と答えるということです。

「助けてください」と言って神のほうへ手を伸ばしたほうがいい。自力に頼ることを少しの間だけでもやめることだ。自我、すなわち自分のことだと思い込んでいるものに頼るのをやめることだ。そして神に向かい、助けを求めることだ。

なぜ?次のことを言っているということになるからだ。

「神様、あなたを歓迎いたします。わたしの中へお入りください。あなたに『はい』と申し上げます。『はい』と申し上げることは、あなたにやってほしいことに対する答えではなく、あなたご自身に対する答えです」とだ。

そうしたら、知覚の移り、すなわち意識中の移りが起こる。

それで状況や兄弟・姉妹などに対するあなたの経験と知覚が一変する。

そして治癒が起こる。愛が表現される。あなたが兄弟の真相を認識したことで愛が引き起こされるのだ。

かいつまんで言うと、あなたは父《=神》がくださるものを受け取る。それによって知覚の移りが起こる。それで兄弟を巡る真相が見えてくる。それであなたはその真相が認識できる。それによってあなたから兄弟へ、愛が自発的に引き起こされるのだ。

よろしいですか。そういう意味なんです。


ACIMの引用
奇跡は思いだ。思いは低いレベルの体験、つまり肉体のレベルの体験を表すこともできれば、高いレベル、つまり霊的なレベルの体験を表すこともできる。一方は物理的な体験を作り出し、他方は霊的な体験を創造する。

奇跡の原理12 (ACIM,T1:1:12:1-3)

ラージュ(イエス・キリスト):先ほど述べたように、あなたたちは自分たち同士で数々の定義を勝手に決定してしまいました。しかもそれらの定義に憂き身をやつしています。

思いというものは、それらの定義を伴う信念や観念を象徴することができる。

思いがそんな信念や観念を象徴している結果では、天国《=実相世界》は浮き世にすぎないように見えてしまう。

一方、それらの定義を捨て、定義への専心のをやめれば、どうなるのか?またはその専心という壁の向こう側へ手を伸ばすことによって、何とかその専心を弱めれば、どうなるのか?

答えは、見たところでは、思いは霊的な体験を創造するということだ。

「見たところでは」という句を付け加えましたね。実際は、「創造する」というよりも、天国の覆いを取るというわけだ。天国はいつもそこにあるからだ。定義抜きの思いは覆いを取り、霊的なものを見えるようにするわけだ。

それをはっきり理解してほしい。なぜなら、あなたたちが創造する能力を得るということなどは、この原理の意味するところではないからだ。

創造能力はエゴの食指を動かすものだ。創造能力を得ようとすることはエゴを強化してしまう羽目になる。

まだエゴから解放されていないあなたたちは、エゴを強化しないほうがいい。

続けましょう。


ACIMの引用
奇跡は始まりと終わりの両方だ。したがって時間の順序を変える。状況が後退するように見えても、実際は前進するので、結局、例外なく状況の新生が認められる。奇跡は現時点において、過去を解除し、そうすることによって未来を解放する。

奇跡の原理13 (ACIM,T1:1:13:1-3)

※ 直訳すれば、 「状況が後退するように見えても、実際は前進するので、結局、例外なく状況の新生が認められる」という部分は、「奇跡は常に新生の、後退するように見えるのに実際は前進する承認/肯定/確認である」となります。
―K・ヤマダ

ラージュ(イエス・キリスト):難解そうですね。でも最後のセンテンスで簡潔に要約されています。「奇跡は現時点において、過去を解除し、そうすることによって未来を解放する」ということです。

それはどういう意味なんでしょう。

あなたたちは自分たち同士で決定した数々の定義に未来を釘付けにしている。しかし奇跡はそれらの定義から未来を解放する。

「始まり」と「終わり」とは何でしょう。

終わりと始まりとは相まって起こるという感じの意味だ。この場合は、抱いていた信念の終わりは、明瞭さの始まりとなるということだ。狂気による苦しみの終わりでありながら、実相の正気の経験による喜びの始まりなのだ。

よろしいですか?

だから始まりと終わりのことだ。実在しないものの終わりと、無視されていたが、いつも実在していたものの始まりのことなのだ。

天国について、あなたたちは数々の定義を自分たち同士で勝手に決定した。それらの定義では、天国はぐじゃぐじゃにゆがまれたように見えてきた。それで、あなたたちはそのぐじゃぐじゃを現実だと思い込み、それに従うようになった。ハラハラするような体験となった。

始まりというものは、その体験に加わる前にあなたたちが知っていた事柄への復帰なのです。

続けましょう。


ACIMの引用
奇跡は真実を立証する。

奇跡の原理14の冒頭 (ACIM,T1:1:14:1)

ラージュ(イエス・キリスト):わあー、奇跡が有意義だという意味ですよ。「奇跡は真実を立証する」とあるんです。

あのね、

ラザロが墓から出てきた。その奇跡が葬式の参列者たちに真実を立証したが、その真実とは何でしょう。

まず、生命が不死だということだ。その上、それより重要な真実だけど、神が本当におられるということです。

ラザロと彼の姉妹たちはわたしの幼なじみだったよ。あなたたちがお互いに知り合っているように、葬式の参列者たちはわたしのことを知っていた。死者を蘇らせる能力だなんて、わたしにも自分たちにもあるわけないと信じていた。わたしのことを自分たちの仲間の一人にすぎないと見なしていたからだ。

そのように、奇跡は思ったよりでかいことを明るみに出すものです。つまり、真実を立証するというわけです。

続けましょう。


ACIMの引用
説得力があるのは、奇跡が確信から生じるからだ。

奇跡の原理14の中部 (ACIM,T1:1:14:2)

ラージュ:確信をどうやって物にするのでしょうか。

何かを成し遂げるための個人能力が自分にあると思い込んでいるなら、その妄想の能力を無視しなければならない。それから神に向かって次のことを言う。

「父上、助けてください。ここにある真相を見せてください」とな。

そうしたら、掣肘を加えないように、また流入を妨げないようにすれば、知覚の移りが起こる。そうなったら、気づけば、何となくホントにホントにホントにホントに知っているとしか言いようのないような体験が始まっている。

この「知っている」という認識は不変なものだ。

なぜなら真実が不変なのでそのように認識するのも当たり前だからだ。

そのように、自分が知っている真実に対する確信は自発してくるものだ。

「奇跡が確信から生じる」とは、そういう意味です。

この確信は、情熱で掻き立てたものではない。また気を張って、または貫禄を付けて奮い起こしたものでもない。この確信は体験から生じるものだ。

この確信は誰も彼も体験できます。

どうやって?

ごく普通の場面で、なんの変哲もない物について好奇心を働かせることによってだ。神が真実を見せたがっているので、あなたは好奇心を働かせることによって、その真実を体験することができるんだ。

続けましょう。


ACIMの引用
確信がなければ、奇跡は魔術へと堕落する。魔術は心がないので破壊的であり、換言すれば、心の非創造的な使い方だ。

奇跡の原理14の残り部分 (ACIM,T1:1:14:3)

ラージュ:そうなんです。その意味は単純ですよ。あなたたち同士で決定した数々の定義をアップデートしているときに起こることです。説明しましょう、、、

出席者:シャーマニズムみたいなことですよね。

ラージュ:まあ、大体そうですけど、誤解しないようにね。シャーマンの中では本物もいるよ。

出席者:そうなんですか。

ラージュ:本物のシャーマンは、自分の最良の判断と最良の観念にとらわれないで、その外側のほうにまじめにに耳を傾けているからです。「シャーマン」という単語の由来は、昔の本物のシャーマンにあるよ。キリスト性《=仏性など》を意識的にもつ人という意味です。

といっても、確信が啓示の体験を通して到達されたものでなければ、述べてあるように、奇跡は魔術へと堕落する。だから、本物ではないのに、シャーマンとして知られている人たちもいるわけだ。



彼らは神性な経験の要点を把握したと思い込んでいる。しかし何かの実相を実際に認識したことに伴う確信がない。なのに特殊な見方と考え方を採用し始めた。

ところがそれは何から何まで頭からくるだけです。

《Q&A省略》

ラージュ:では、「確信がなければ、奇跡は魔術へと堕落する。魔術は心がないので破壊的であり、換言すれば、心の非創造的な使い方だ」とある。心の非創造的な使い方は心を使わないということそのものです。

白昼夢にふけるために心を使っている。そしてその間中、実際に行われている事柄を無視するために、心を使っているといえる。しかし実際の事柄を体験するためには、心を使っていないということになる。

それが心の非創造的な使い方なのです。

《Q&A省略》

奇跡の50原理(その2)




ワシントン州キングストン郡
2002.08.07のACIM Study Group
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.09.10
英語原文
目次
2011.9.10 大幅な改訂
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K・ヤマダ訳
A Course In Miracles
「イエスは語る」ロゴ
acim.jp


「わたしはクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
イエスキリストによるACIM解説:奇跡の50原理