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奇跡の50原理(その2)


ACIM Study Group
ページ位置の確認: T1:1:33〜41
(ACIMテキストブック第1章、第1部、第33〜41節)

※原理15〜32の解説の収録されたカセットテープが入手できなかったため、今回はいきなり原理33から始めることになりました。
――K・ヤマダ


ラージュ(イエス・キリスト):さて、始める前に、一つだけ言っておきたい。

わたしたちは興味深い本を読んでいる最中です。変貌をもたらすという目的の本。しかし酸鼻を極める害を自分自身に与える可能性があります。それについて警告しておきたい。

目を覚ます手段として、書物、または教えや思想体系を見つけたとする。それで見てみれば、記述や説法、ワークショップなどはどれもこれも極めて緻密だ。しかもきちんきちんと筋が通っている。

文句なしだ。

それで記述の通りに生活していきさえすれば、または思想体系の原理の通りにきちきちに従えさえすれば、目が覚める《=悟りを開く》と思ってしまう。

ところがそれは当てが外れるも甚だしい。

なぜ?そんなやり方では、神の生きている臨在をも、天地創造という運動をも意識的に経験することができないからだ。この点には重きをどすんと置きたい。極めて重要なんです。

神の存在という運動は昼夜をおかず、新たになっている。それを体験することはどの思想体系にも従うものではない。絶対に。

望ましいことは、静止したものに従うのではなく、新たになりつつある神をしっくりと体験することだ。だからACIMで読むことでは、どの箇所でも、神の体験を受け入れようとする心構えが肝心。

しかし生きておられる神を身を以て体験し始めることは、エゴにとっては、不安な経験となる。予測できないので頼りないわけだ。



だから筋が通り、きちんきちんと並べた原理をもつ思想体系を求める人々が多い。見つけ出したら、それにねちねちしがみつく。しかしその人々は、神を体験することに対して、自己防衛にふけっている。なぜなら彼らは、静止したもの、すなわち絶対的に頼もしく固定したものを求めているからだ。

でもそんなのは天地創造を体験することにはならない。

さて、わたしたちは奇跡について読んでいますね。それで奇跡というものは知覚のぱっと移ることだとわかった。そして知覚の移りがどんなときに起こるかについて話し合ってきた。

自分たち同士で決定した数々の進行中の定義、つまり自分たちの進行中の思考パターンを強化していないときに、そして神に対する防御を強化していないときに起こるということだとわかった。

それらの防御がなくなれば、ぴかっとひらめきが走りかねない。言い換えれば、目からうろこが落ちかねないのだ。それで知覚が移る。それで森羅万象に対する見方も経験もばんと変わる。

奇跡というものは、論理や知識で到達するようなものではない。

かえって、新しい見方が自覚に挿入されたようものだ。それで自覚がばんと変わる。思いも寄らないことだ。



あらかじめ、奇跡がどのように見えてくるか、またはどう起こるべきかを知っていると思い込んでいる人々がいる。しかしそんな人は奇跡を経験するわけがない。

なぜ?

奇跡が実際に起こったら、あんな人は、「あれは奇跡じゃねえ」とでも言う。または、奇跡というものに対する先入観で、奇跡が起こっても気づきもしない。だからだ。

新しいものが自分の先入観を貫いてきてほしければ、あっさりと無防備にならなければならない。単純なことですね。

それを心に留めておきながら、今回は奇跡の原理33で始めましょう。


ACIMの引用
あなたは愛すべき存在なので、奇跡はあなたを尊ぶ。奇跡はあなた自身についての幻想を追い払い、あなたの中で光を知覚する。こうして、あなたを悪夢から解放することによって、あなたの過ちをあがなう。自らの幻想の虜となっていたあなたの心を解放することによって、あなたの正気を回復させる。

奇跡の原理33(T1:1:33:1-4)

ラージュ(イエス・キリスト):この原理には、ここまで学んできたことが包括されています。

「あなたは愛すべき存在なので、奇跡はあなたを尊ぶ」というセンテンスを見てみましょう。面白いことに、奇跡は、あなたの愛すべき本質をあなたに見せ、それによってあなたを尊重するということだ。

ある意味では、この文は「水が濡れている」というような冗漫な言い方だ。

あなたは愛すべき存在なので、奇跡はあなたを尊ぶ。言い換えれば、奇跡では、自分も気づかなかった自分の真相が明るみに出てくるので、自分が尊い存在だとわかる。それで、自分自身についての幻想が追い払われるわけです。

では、次の原理に進みましょう。


ACIMの引用
奇跡は心を完全な状態に回復させる。欠如をあがなうことにより、完璧な守りを確立する。霊の強さでは侵入される透きがない。

奇跡の原理34(T1:1:34:1-3)

ラージュ(イエス・キリスト):「霊の強さ」とは何なんでしょう。

霊というものは実質そのものだ。実質というものは霊そのものだ。この会場にあるすべての物の実質は霊。あなたの実質は霊。あなたの命そのものの実質は霊。

「奇跡は心を完全な状態に回復させる」という部分を見てみましょう。奇跡では心の分割できない一体性が明るみに出てくる。しかも心の潔白が明るみに出てくる。さらに、心には森羅万象が包含されているということが明るみに出てくる。

欠如がないということを明るみに出すことにより、完璧な守りを確立する。

「完璧な守りを確立する」というのは、戦車や対空機関砲、防壁などであなたを囲むという意味ではない。自分が本来、傷つき得ない金剛の体だということ、すなわち傷つくことがあり得ないということを明るみに出すという意味だ。

あなたと異なっているものは存在しない。したがって守りの必要を呼び起こすものが存在しない。そういうわけで、守りが不要だということを明るみに出すことによって、完璧な守りを確立するのだ。



そして、霊の強さ、すなわち自分の命の実質の強さでは、侵入される透きがないのだ。奇跡では、自分の意識的経験として、自分の実相が確立される。そうなったらどの物からも、侵入される可能性がなくなる。しかも自分と異なった物が存在しないので、自分を侵し得る物がないということに気づくのだ。

これでふうっと胸をなで下ろせますね。

続けましょう。


ACIMの引用
奇跡は愛の表現だ。しかし奇跡の効果が必ず見えるとは限らない。

奇跡の原理35(T1:1:35)

ラージュ(イエス・キリスト):奇跡の効果が必ず見えるとは限らない。といっても、奇跡は例外なく効果をもたらし、愛は例外なく状態を変える。

しかし、(奇跡というものに対する先入観で)その効果が必ず見えるとは限らない。

といっても、奇跡が知覚の移りであるなら、奇跡の可視的な証拠が例外なく目に見えてくるはずだ。なぜ?あなたたちは天国に目をやりながら浮き世しか目に映らないが、奇跡では知覚が天国のほうへと移るからだ。したがって可視的な有形の変態が目に見えてくるわけだ。

病気やけがの表れが消える。

または森全体にかかった胴枯病が消える。

またはオゾンホールが消える。

または機械的処理なしで水道が清浄される。

そのような変態だ。

妄想では、あなたたちの世界は不注意でめちゃくちゃになったように見えてきた。しかし実際には、天地は一瞬たりとも、めちゃくちゃになったことがない。知覚の移りが起これば、人がもたらしたように見えるゆがみがなくなる。ゆえにそのゆがみのもたらした苦しみもなくなるのだ。

瞬間的にばーんと起こることがある。

知覚が移れば、その知覚が変わらないわけがない。

浮き世が目に映っていた場所に、天国が有形で明白に目に見えてこようとしている。

だからそれを遮断しないようにすべきだ。だからいかなる理由でも、天国に対する反論は禁物。

それがとても重要。

《Q&A省略》

続けましよう。


ACIMの引用
奇跡は正しい考え方の具体例であり、あなたの知覚を神が創造されたままの真実に一致させる。

奇跡の原理36(T1:1:36)

ラージュ(イエス・キリスト):これはもう言わずと知れたことになってきたな。しかも奇跡は自然にすーっと発生するものだ。計画によらないで起こるものだ。努力の結晶ではなく、かえって努力しなかったときに起こるものだ。

防御していないときに起こるものだ。自我の外側にあるものへ注意を向けているときにも起こるものだ。よろしいですか?

続けましょう。


ACIMの引用
奇跡は誤った思考体系の中へわたしが導入した修正だ。触媒として働き、間違った知覚を打ち砕き、適切に再編成する。これによってあなたはあがないの原理の下に置かれることになり、そこで知覚が癒される。これが起きるまでは神聖な秩序を知ることは不可能だ。

奇跡の原理37(T1:1:37:1-4)

ラージュ(イエス・キリスト):さて、一点を明確にさせてもらいたい。奇跡が自分を囲む殻を貫通して内側に入ってこなければならないが、それを引き起こす最も有益な要素の一つを明かしましょう。

ニーズというものがある。しかしあなたにはニーズを満たす能力がない。ニーズは満たされるまで、ただただ圧力をかけ続けるものだ。でもニーズが満たされたということは、ニーズがなくなったというわけではない。

だからそのニーズがあるということを認めなければならないのだ。

そのニーズを否定するのをやめ、それを取り繕おうとするのをやめ、そして身を以てその必要性を感じることだ。そこでそのニーズを満たすことが自分の手に余るということを思い知り、そして自分が無力だと認めることだ。

そうしたら、そのニーズを満たす能力があるという傲慢が消えていき、そして自分は、もう、謙虚になっている。

謙遜になっている状態では、父があなたの心に響ける。わたしもあなたの心に響ける。聖霊もあなたの心に響ける。そして修正するために必要とするものを明るみに出せる。



そこであななたは啓示を受ける。あなたが簡単に引き起こせる、修正をもたらす知覚の移りについての啓示だ。合点がいく啓示だ。なのであなたは知覚の移りを実際に引き起こす。

そうしたら、痛みが消え失せる。

苦しみが消え失せる。

満たされていないニーズは満たされたニーズに換わる。といってもニーズそのものはなくなるのではない。わたしが伝えようとしていることを少しだけでも把握し始めていますかな。ニーズが満たされるとはニーズがなくなるという意味ではないのだ。

じゃ、どういう意味なんでしょう。

本来は、あなたは神の直接の表現そのものだ。なのに自分の自我の表現になろうと努めている。こうなったら神の完全な表現になれるのは、自我の表現になろうと努めるのを中断するときだけだ。

要するに、自分自身の意志の表現や、自分のことについて自分が理解できる限りの表現、習い性でのあるべき姿の表現などになろうと努めるのを中断しなければ、経験としては、神の直接の表現になれないということだ。

神の直接の表現としては、あなたの何から何までは神からきている。だからコントロールを神に譲れば、漏れなく自分のニーズが満たされるわけだ。

ただ、神から独立した絶対的な自立自存というものもニーズだとすれば、それだけが満たされない。神から独立することは実際にはあり得ないからだ。

そういうわけで、ニーズというものは、満たされるものではあるが、なくなるものではない。

《Q&A省略》


ACIMの引用
聖霊は奇跡をもたらす機能だ。神の創造物とあなたの幻想の両方を認識する。選択的にではなく全体的に認識する能力により、本当のものと仮想のものを分ける。

奇跡の原理38(T1:1:38:1-3)

ラージュ(イエス・キリスト):まさにその通りです。「問題はその問題のレベルでは解決されないものである」という名言を聞いたことがあるでしょう。正鵠を射た格言だな。

なのにエゴは問題をそのように解決しようとするばかりだ。だからあなたは、エゴの外側のほうに助けを求めるべきだ。そうすれば聖霊を歓迎することになるからだ。

ところで聖霊とは何なんでしょう。

以前にも述べたように、聖霊とは、あなたがエゴと戯れている間に保管された、あなたの神性のことなのです。

出席者:聖霊というのは、僕の知覚を超えているもので、あそこのテーブルの実相の存在として運動しているところのものじゃないですか。同時にあそこのガラス板の実相の存在として運動しているところのものじゃないですか。

ラージュ:あのね、あのテーブルとガラス板は、聖霊とは無関係に、それ自身の実相の存在として運動しているところのものです。なぜなら、それらの実相の存在として運動しているところのものは神だからです。



聖霊はね、それらの実相を認識すると同時に、それらに対するあなたの見ている錯覚を認識する。それで、突然の知覚の移りをあなたの心中に導入し、錯覚と実相との間のギャップを縮め始める。そういう働きをするものです。

《Q&A省略》

同出席者:僕のやるべきことは、すべての物の実相を認めるということですね。

ラージュ:そうですよ。だけど助けを求めなければ、自分でできるわけがない。

あなたは自分のことを限定する定義を抱いている。自分のそれぞれの能力にも自分で定義を与えている。しかもそれらの定義を本当だと思い込んでいる。だからそれらの定義の境界の外側のほうへ心を向けて助けを求める必要がある。しなければ、何かの物の実相を感受することができるわけがない。

念のために言っておくけど、あそこのテーブルやカラス板、椅子などは、丸ごと神性のままに行われつつある現実です。

しかしあなたたちはある意識的な選択をしてしまった。それは、すべての物の意味を気ままに決め、自分たち同士でそれらの物に定義を決定するということだった。その結果、物の実相とあなたたちの知覚との間にはギャップが生じてしまった。



そういうわけでわたしは何度も何度も言う。その錯覚を砕くのに最も簡単な方法は好奇心を持つことだということだ。

何かの物の実相への好奇心だ。

好奇心は定義へのこだわりからあなたを解き放すものだからだ。

じゃ、次の原理に進みましょう。


ACIMの引用
奇跡は過ちを解消する。なぜなら聖霊は過ちを仮想、すなわち非現実であると識別するからだ。これは、光を知覚すれば暗闇が自ずから消滅するということと同じだ。

奇跡の原理39(T1:1:39:1,2)

ラージュ(イエス・キリスト):そう。非現実のものは存在しない。非現実のものは仮想されたものだ。しかし暗闇が測定可能なものの存在ではないように、非現実のものは実在しない。

光を測定することは可能だが、暗闇そのものは測定可能ではない。

ところが、知覚の移りでは、非現実のものの馬脚がまざまざと見えてくる。そこで非現実には、反応や防御を引き起こすものがないということが明々白々となる。本当の現実から気をそらすものが何もない。

非現実のものを明るみに出すことは、あなたがそれを駆除することを可能にするためではない。現実と非現実との違いは、食用麦と毒麦との違いのようなものではないからだ。

食用麦と毒麦の場合は、成長中のある時期まではどっちがどっちか見分けがつかないが、両方とも実在するのだ。

あなたは自分の意志で偏った見方で物事を見ている。しかもその見方がいいと言って意地になっている。これで天国のあらゆる面がゆがんで見えてくるわけだ。

ところが、いずれ不随意の知覚の移りが起こる。

そこであなたが作った事柄、すなわちあなたの偏った知覚の化けの皮が剥がれてしまう。そこで目からうろこが落ち、ぱっと錯覚から解放される。そうなったら、取り組むべきもの、または処分すべきものはもうない。なぜなら、ゆがみしか目に映っていなかった場所には、実相世界がくっきりと顕現し、そのほうが目を引くからだ。

よろしいですか。


ACIMの引用
奇跡では、すべての人があなたの兄弟でも、わたしの兄弟でもあると認められる。神の遍在的な印が知覚される。

奇跡の原理40(T1:1:40:1,2)


ラージュ:このことについて、もう何週間もつぶさに話し合ってきたので、次の原理に進みましょう。


ACIMの引用
全体性が奇跡の知覚内容だ。したがって奇跡は欠如という誤った知覚を修正する。すなわちその誤った知覚をあがなう。

奇跡の原理41(T1:1:41:1,2)

ラージュ(イエス・キリスト):全体性が奇跡の知覚内容だ。

知覚の移りが起これば、物の真相が目に映る。壁や足の指など単純な物も、思ったよりはるかに偉大な物だということに気づく。なぜならその物には神の臨在を認識するからだ。

あの物の源も実質も神だということを認識する。どの極めて変哲もない物も、えも言われぬ(メチャメチャすげえ)物になる。そして、以前にも述べたように、あの物の実質は愛だということに気づく。

しかもあの物は愛を発散している。あなたを包み込む愛だということにも気づく。

そればかりか。

その愛があなたの実質だということにも気づく。そして相互の愛の関係で、あなたも、あの物も、相互にありがたく思っているということがわかる。

あの愛はあなただけのものでもないし、あの物だけのものでもない。あの愛は、あなたとあの物とは一体であるという明晰な経験でもあり、深遠な認識でもある。これが全体性というものなのだ。

想像を絶する至福の体験ですよ。

それを伝えたのは、気づいてほしいことがあるからです。それは、あなたは物の実相を知らない。だから、知らないということに気づき、興味津々で何かの物の実相を感受しようとすればいい。なぜなら好奇心を表せば、甚だしく感動するような体験を手繰り寄せることになるからです。

その体験はただの知的な思い付きという程度のものではない。

《Q&A省略》

奇跡の50原理(その3)




ワシントン州キングストン郡
2002.08.28のACIM Study Group
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.09.24
英語原文
目次
acim.jp logo
K・ヤマダ訳
2011.9.24 大幅な改訂
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「わたしはクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
イエスキリストによるACIM解説:奇跡の原理、その2(33〜41)