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イエスご自身が掌を指すようにACIMを解説...

奇跡の50原理(その3)


ACIM Study Group
ページ位置の確認: T1:1:42〜46
(ACIMテキストブック第1章、第1部、第42〜46節)


ラージュ(イエス・キリスト):諸君、自分の心と自分の存在は、ちょうど今、どのような雰囲気になっていますか。そこに注意を向けてほしい。そして今晩、自分が何をしたか。それについても注意を払ってほしい。

どういうこと?

要するに、この集いに出席するために自分の日常の活動を中断したじゃないですか。自分がふだんかかわることをひとまず脇にやり、ここへ足を運んだ。着いたらあいさつを交わし、少しおしゃべりをした。

それからいつもの静寂時間に入った。その時間中、社交モードから出て、瞑想などをして気を静めた。それはコース《=ACIM》にある記述に、そしてわたしの話に集中するためだというわけですね。

繰り返すけど、自分の内側のちょうど今の雰囲気に注意を向けてほしい。その雰囲気にはどんなものがあるのか。ふだんあるのに、今はなくなっているのはどんなものなのか。



、、、さて、わたしがこの話を持ち出したのには、訳がある。

わざわざここに来なくても、あなたは同じ雰囲気を再現することができる。

どうやって?

まずトイレや寝室など数分間邪魔されない場所に行くことだ。そしてそこて座り、進行中の活動や心配事を棚上げにすることだ。そして、耳を傾ける気構えで、その数分が可能な限りの静かな一時になるという選択をすることができる。

そうしたら、何でも、わたしにじかに聞いてもいい。

そうすれば、あなたに聞こえても聞こえなくても、わたしは答えてあげる。あなたはその答えが聞こえるようになっていなくても、わたしはいつも答えてあげる。それを知ってほしい。

わたしは必ず答えてあげますよ。

手のあいたときに、自宅でも職場でもどこでも、今晩のあなたの経た過程とちょうど同じ過程を経ることは役に立つ。聞こえるようになるためにはそれが早道だからだ。やってみればいいよ。

静かにならなければならない。静かになるためには、効果的だと分かる手段をどれでも採用してもいい。

静かになったら、解答となる明瞭さを得たいという願望を表すことだ。

そうしたら静かになったままで耳を澄ませばいい。

今晩のあなたの経た過程より難しいことではない。

自分の関心事に取り掛かる意思を快く脇にやり、その代わりに助けを求め、助けを招き、必要なものを受け入れるということだ。いい習慣になりますよ。身に着けるといい。それだけのためにも、自分のガイダンスとまだ連絡を取っていなければ、今晩のあなたの経た過程が役に立つ。少なくとも一日に一回やるといい。



力んでやっちゃいけない。今晩はこの過程を経るのには、力まなかったじゃないですか。毎日やるときにも同じようにすればいい。

自分のガイダンスと連絡をしっかりと取っていなければ、わたしが今明かした過程を頻繁にやるといい。そうすれば自分の注意力の性質が高まってくるし、自分の落着きの性質も高まってくる。

したがって自分の聞く力も高まってくるのだ。

わたしの代わりに、自分のガイドと連絡を取りたければ、ぜひともガイドのほうへ注意を向けたまえ。ガイドというものは、わたしと同じほど目覚めているし、わたしと同じように答えてあげるものなのだ。

わたしたち目覚めている個人性は例外なく、あなたのためを一番に思っている。

わたしたちの意思は、父《=神》があなたに知ってほしいことをあなたに伝えるということだ。あなたが知るべきだとわたしたちが勝手に判断することではなく、父があなたに知ってほしいことだけだ。

それでは、あなたと父とのつながりは、あなたの意識的な経験としてしっかりと立てられるようになる。しかもわたしたちはみな、そうするために壺を同じほど心得ているのだ。

よーし、今回は奇跡の原理42で始めましょう。


ACIMの引用
奇跡の主要な貢献の一つは、孤立・喪失・不足という誤った感覚からあなたを解放する力にある。

奇跡の原理42(T1:1:42)

ラージュ(イエス・キリスト):自分の手によらないのに、自分の知覚がすーっと移れば、必ず気づくことがある。それは、その移りは自分の手によらなかったなら、その出所は自分以外のどこかにあるはずだということだ。

自分の手によらなかったものが自分の自覚に入り込んできたわけですね。これはどういうことかというと、自分が独りじゃないという紛れもない証拠なのだ。

それだけではない。

自分と共にいる聖霊やガイドなどは、すっかり有益なやり方で自分と接触するということがわかる。しかも、そのやり方がすっかり有益なのですっかり頼もしいということもわかるのだ。

頼もしいというのは、わたしがそう言ったからではなく、その体験で自明の理になるからだ。こうして孤立感が解消されるのだ。

続けましょう。


ACIMの引用
奇跡は奇跡を受け入れる心構えから生じる。

奇跡の原理43(T1:1:43)

ラージュ(イエス・キリスト):では、質問します。奇跡の心構えでない精神状態はどういうものでしょうか。

出席者:わたしたち同士で勝手に決定した概念にとらわれている状態だと思います。

ラージュ:それもそうですけど、自分の個人的な経験から、奇跡の心構えができていないことについて話してもらいたい。

同出席者:じゃ、うまくいかないように見える物事について気に病むことです。要するに心配事やおそれで心を騒がし、「やれやれ、えらいことになっちまった。困ったなぁ。なんでこんな目に合わなきゃなんねえんだよ。おれはほんとにバカ」とか言って嘆くことです。

ラージュ:正しくその通りです。奇跡の心構えでない精神状態は、最悪の事態に陥る、または最良に及ばないことが起こる、または状況が絶望的だという見解なんです。

では、奇跡の心構えとは、どのようなものだと思いますか。

《一部分省略》

別の出席者:小我の意志がすべてだという見解をまじめに快く手放し、真相を聴こうと耳を澄ますことだと思います。

ラージュ:予期せぬ真相ですね。

同出席者:ええ。

ラージュ:言い換えれば、奇跡の心構えとは、奇跡に対して悲観的な信仰が行われていないことなのだ。

悲観的な信仰というのは、「何もかもが裏目に出ていく一方で、回復する見込みがない」とか、「状態がめちゃくちゃになっちまって、浮かぶ瀬がない」とか言って嘆くようなことだ。



ちなみに奇跡の心構えをもつのには、奇跡に対して楽観的な信仰を行わなくてもいいということを指摘したい。ただ悲観的な信仰を行わないなら、それでいい。

よろしいですか。

別の出席者:僕に言わせれば、奇跡の心構えは好奇心だということです。好奇心というのは、ニーズがどうやって満たされるだろうか、自分も分からないので見てみたいということです。

ラージュ:それも正解。ほかには?

《一部分省略》

別の出席者:行動する前には、快く持つということだと思います。たとえば、路上で目の前にある店に入るべきか、それとも右に行くべきか、または左に行くべきか分からないままで立ち止まるということです。

要するに、小さい子供のころ、どこかへ両親に連れて行かれたときのような経験です。両親が責任を負うじゃないですか。ですから何も考えないで、ただ「あっちで座って待ちな」とか「これやりな、あれやりな」とか言われるのを待つだけでしょう。

この頃、コーヒーを一杯注文するくらいのことでも、ガイドや聖霊と相談しなくても自分だけで簡単にできるようなことでさえ、あたしはしゃにむに行うことを控えようとしています。そうしたら世の中がのろのろモードに切り替わったような感じになります。

ラージュ:それで奇跡を受け入れるように構えた心は、何ももくろみもしないで注意を払っているものだとも言える。注意というものは好奇心の一種だ。だから、やるべきことが分かっていると思い込んでいれば、注意を払っていると言えない。

《一部分省略》

よって奇跡の心構えとは、一瞬間だけでも思い込みをまるまる手放すということだ。そして神に向かって次のことを言う。「父上、自分のすべての思い込みは別にして、ここの真相はどういうものですか」とだ。

または、「自分のすべての思い込みは別にして、何がうまくいくのですか。そして何がうまくいかないのですか。自分の次にやることは何が適切ですか」とだ。

よろしいですか。

一瞬間だけでも、習い性となった思い込みを快くまるまる手放さなければならない。なぜなら、繰り返すけど、思い込みを抱くことは、奇跡に対しての悲観的な信仰を積極的に行っているということだ。



悲観的な信仰というものは、ただの不活発な絶望感だけではない。悲観的な信仰は強引だ。積極的なものだ。不活発なところなどが何もなく、押しの強いものだ。

《一部分省略》

だから奇跡に対する悲観的な信仰を取り除くということは、押しの強さを取り除くということだ。

つまり良し悪しに対する確信を取り除くことだ。治癒が起こるはずの過程に対して確信があるなら、その確信が妨げになる。その妨げで、治癒が神の手によって実際に起こる過程が見逃されかねない。

いいですか。

確信は、ポジティブでもネガティブでも、神に突く盾のようなものだ。

神をじかに体験するのには、確信という盾を下さなければならない。神の体験は自然にすっと起こり、まったく斬新で予想外なものだ。といっても決して腰を抜かすものではない。あなたにとって必ず理解できるものだ。

知覚ががらりと移ることは、明瞭さがどーっと浸透してくることだ。と言っても信じられないほどにはならない。また理解できないほどにはならない。そんなめちゃくちゃな経験にならない。

知覚の移りはいつも単純明快なので、「そうだったのか、なるほど!」とあなたは言い出す。

よろしいですか。

《一部分省略》

ラージュ:奇跡の心構えでは、習い性となった見方を控え、快く新たな見方で見る必要がある。要するに、愛敬のない、許せない、鼻持ちならない人に目をやり、その人みたいなものが天国の中で一体何だろうと快く好奇の目で見抜こうとすることだ。

それが奇跡の心構えというものだ。

あなたが面しているものは一つだけだ。なぜ?行われつつあるものは一つだけだからだ。それは天国だ。すなわち実相世界だ。すなわち天地創造そのものだ。すなわち神の顕現した臨在だ。

よってあなたのやることは一つだけだ。

それは好奇の目で天国を眺めることだ。びくびくしながらではなく、いそいそと目をやることだ。そこで、この世が一体どのように天国または天国の一面になっているか、探究心で知ろうとすることだ。

言をまたないことだが、自分の目に映っている世界は天国のようには見えない。それは自分の確信のせいだ。だからその確信を覆す答えを得るために、純粋な好奇心をもつことが大切なのだ。

それは奇跡の心構えの一例だ。

よろしいですか。

そういうわけで奇跡の心構えはふだんから行うことだ。

ところがあなたたちは皆、状況に対する思い込みに執着を持っている。その執着で、奇跡をはね付ける心構えを行っている。強引にな。



では、奇跡を受け入れる心構えは、一瞬間だけでも、奇跡をはね付ける心構えを手放すということだ。そうしたら、意識または知覚の翻然とした移りが起こる。

何回も起こりますよ。

なぜなら少しの間、あなたは思い込みへの執着から気を取られているからだ。自分の信念を強化することへ注意を向けていないわけだ。その一瞬間、自分の鎧には隙間がある。そこでその隙間を通って実相が抜けてくるわけだ。

そういうわけで奇跡への楽観的な信仰がなくてもいい。やることは、ただ悲観的な信仰を一瞬間でも脇にやるだけだ。

といっても、楽観的な信仰が無意味だとは言っていない。言っているのは、奇跡を体験するのには楽観的な信仰心が不可欠ではないということだ。

唯一の不可欠なのは、悲観的な信仰を一瞬間やめるということだ。

それが絶対不可欠なのだ。

よろしいですか。

《一部分省略》

よーし、原理44。


ACIMの引用
奇跡はキリストについての内なる自覚の表現であり、キリストのあがないを受け入れたことの表現だ。

奇跡の原理44(T1:1:44)

ラージュ(イエス・キリスト):ここでは、次の疑問が浮かび上がってくる。

「キリストについての内なる自覚は、奇跡を体験するために不可欠なのか」ということだ。

答えは「ノー」。

でも不可欠なことは一つある。それは自分を助けてくれる、自分より大きいものの存在を意識するということだ。

説明しましょう。

キリストの存在に気づいていないままで、人生のどん底で辛酸をなめているとするよ。お手上げで、虚空をつかもうともしなくなったとする。

そこで未知のものに助けを求めるとする。その未知のものを「神」という用語で呼ぶとしても、そういう用語で呼ばないとしても、どうでもいい。宇宙を創造したに違いないという漠然とした感じのものに助けを求めてもいい。

自分の能力に見切りをつけて、自分の外側のほうへ向かって助けを求めたとする。そのことは、自分を助けてくれる、自分より大きいものが存在するという認識を表すことになる。

それだけで十分。

事態を好転させる治癒・新生・洞察が体験されるはずだ。でもそれがキリストのおかげだということに気づかなくてもいい。また、自分自身に対しても、良くなった印象をもつようになるわけだが、それが自分のキリスト性だということにも気づかなくてもいい。

そんな認識が言葉や概念にされていなくてもいい。

肝心なのは、その人は、すべての物には、そのときまで気づかなかった根本的な実相に気づいているということだ。よろしいですか。

では、「キリストのあがないを受け入れる」とは、どういう意味でしょうか。

この世という仮想世界からみれば、あなたたちと同じように、わたしもこの世に生まれてきて、同じ経験をしたことがある。



この世では、人は自分の存在という運動である神の臨在に、人格という習い性をいっぱい付け加え、しかも自分たち同士で決定した数々の定義にふけるのが普通。だけどわたしの場合は、この世にいるときに、そのことをしないという意識的な選択をした。

その選択をしてから、自分が存在している場所では、わたしは非実在なものが付け加えられたという芝居に関与しなかった。

それでどうなったでしょう?

この仮想世界では、そのことはドミノ倒しのような連鎖反応を引き起こしたのだ。よってわたしが最初に倒れたドミノ牌のようなものだ。だが勘違いしないように。それはわたしがあなたたちより偉いという意味ではない。ただドミノ効果を引き起こしただけの意味だ。

ドミノ牌が次々と倒れつつある。このドミノ牌の長蛇の列はあなたたちのことだ。このドミノ倒しは、わたしとあなたたちとの関係を表している。

これが「キリストのあがない」というものだ。

このことについて言葉や概念がなくても、「キリストのあがない」には変わりがない。

あなたたちは理解しなければならないことがある。それはACIM《=『奇跡のコース』/『奇跡講座』》の勉強で、ACIMそのものを学ぶべきものではないということだ。

説明しましょう。

あなたはアマゾンのどこかに行ったとするよ。そこでインディアンの部族に出会ったとする。しかしあなたはその部族の言葉で話せない。それでコミュニケーションが取れるわけがない。

そうすればあなたはキリストとして活動できないのか。

啓示を引き起こす影響がなくなるのか。

仮にその部族の言葉で話せるとする。しかし部族の人々はコース《=ACIM》による原理について聞いたことがないとする。そうすれば、コースの原理をその人々に教える前に、コースに流用されたキリスト教用語を理解させるために、まずキリスト教を教えておく必要があるのか。

言葉がそんなに肝心なのか。

答えは「ノー」。

肝心なのは、言ってみれば、奇跡を受け入れる心構えなのだ。

あなたは自分で自分自身を創造したのではなく、何者かがあなたを創造したのだ。さらには、あなたは自分自身に対する責任を持っているのではなく、何者かがあなたに対する責任を持っているのだ。これは基本前提。



この前提を受け入れたら、その何者かには、別の見方があるかどうをあなたは知りたくなるじゃないか。そう知りたくなったら、自分の考え・思い込み・執着の重要性を低くし、好奇心を抱く。そうしたらあなたは、未知の世界への入り口に立ち、神との自然な関係に入ることになる。

それが奇跡の心構えというものだ。

しかしそれを学ぶのには、言葉や概念など無用の長物の採用を最低限にしなければならない。

神との自然な関係に入っているならば、言葉を使わなくても、兄弟《=男女を問わず自分以外の人》と接することが可能になる。言葉を使っても、ACIMを巡る新しい定義をあなたたち同士で決定するまでもない。

そのように接すれば、兄弟は目を覚ますことができる、または自分なりに身を以て神をしっくりと体験することができるようになるのだ。いいですか。

よーし、続けましょう。


ACIMの引用
奇跡は決して失われることはない。自分がまだ会ったこともない多くの人々にまで触れ、自分が自覚していない状況においても、思いも寄らぬ変化を生み出しかねない。

奇跡の原理45(T1:1:45:1-2)

ラージュ(イエス・キリスト):まさにその通りだ。単純明快な事実だ。

一つだけ言っておきます。

あなたが奇跡を体験したことで、すべての人は恩恵を受けたことになる。たとえ3週間も経たないうちに、自分は奇跡が起こる前の状態にまた陥ってしまっても、すべての人の受けた恩恵は取り消されることはない。

自分の目から落ちたうろこをまた目に貼り付けても、すべての人は恩恵を受けたことになる。なぜなら人の心はそれぞれ互いに結ばれているからだ。

じゃ、


ACIMの引用
聖霊はコミュニケーションの最高の媒体だ。奇跡は一時的なコミュニケーションの手段であるため、その種のコミュニケーションを含まない。神から啓示をじかに受けるというコミュニケーションモードに立ち返ると、あなたには奇跡が不要となる。

奇跡の原理46(T1:1:46:1-3)

ラージュ(イエス・キリスト):奇跡は、あなたが防御していない隙間に起こる、わたしが差し入れる知覚の移りだ。あなたが防御している間にも、わたしはしょっちゅう差し入れようとするが、そんなときには受け入れられない。

言ってみれば、奇跡は昼夜をおかず導入されようとしている。

しかし奇跡は、あなたの耐え切れる範囲以上の意識の移りを起こそうとしない。要するに奇跡を受け入れるために、あなたは自分のことが自分自身だと分からなくなるほどに自分が変わらなければならないということはない。

奇跡は一発の衝撃的な行為で人を目覚めさせるために起こるものではないわけですね。

奇跡はあなたの耐え切れる範囲以内だけであなたを伸ばす。そのように、そのままのあなたを尊重するのだ。

では、今回はそれについてそれだけにしておきましょう。

《Q&A省略》

出席者:「聖霊はコミュニケーションの最高の媒体だ。奇跡は一時的なコミュニケーションの手段であるため、その種のコミュニケーションを含まない」とあるじゃないですか。そして「神から啓示をじかに受けるというコミュニケーションモード」というのもあるじゃないですか。そうすると、3種類のコミュニケーションもあるわけですか。その意味をもっと明確にして頂きたい。《質問の要約》

ラージュ:前回にも述べたように、聖霊とは、あなたがエゴと戯れている間に保管された、あなたの神性のことですね。聖霊の媒介でのコミュニケーションは、あなたの実相をあなたに想起させるものです。

一方、奇跡は知覚の移りを促すものですね。知覚の移りは存在という運動の本質をあなたに見せる。その上防御のない対人関係を促す。

この世の中は敵対的に見えかねない。しかも兄弟たち《=人たち》はあなたから搾れるだけ搾ろうとしているように見えかねない。しかし防御のない対人関係では、愛の顕現としてあなたは、防御機制としての立場をあきらめる意志を取り戻すことができる。



あなたは防御機制そのものから、体現された愛、つまり快く無邪気な目で見るものに移り始める。移れば移るほど、自分の実相を想起することに対して自然に防御を下ろす。

その防御のない状態では、自分の神性である聖霊はその深い想起を引き起こすことができる。それによって、(「神から啓示をじかに受けるというコミュニケーションモード」にある)自分の実相は自分の本当のアイデンティティとして、元どおりに体現されるのです。

同出席者:いっぺんにですか。

ラージュ:いいえ、徐々にです。だけど防御を下ろせば下ろすほど、自分の経験での防御機制が薄くなる。したがってあなたは段々無邪気になり、段々柔軟になり、受容力が段々高まるわけですね。

それで自分の存在という運動には、好ましい環境が備わってくる。

この環境では、聖霊はあなたのために、あなたの実相に光を当てることができる。それであなたは自分の実相を取り戻すことができる。取り戻せば取り戻すほど、自分がまだ拒んでいる残り部分が段々少なくなるわけです。

今のところでは、それより平たく説明することができません。

《Q&A省略》

ラージュ:さて、奇跡の心構えは好奇心を働かせ、エゴの定めた範囲を超える経験を招く状態だ。繰り返すけど、それは未知のものに助けを求めるということなのだ。

あっぷあっぷしているところでも助けを求めてもいい。しかし苦心は不要。気が休まるときにも求めてもいい。

たとえば、庭でゆったりとくつろいでいるときに、次のようなことでも聞ける。「神様、このバラの葉っぱの上をはっているてんとう虫は一体何ですか。私の知覚できる範囲以外にも限りなく広がっているはずです。その目もあやな美しさと神性の意味を見せて頂きたい」と。

そういうことです。

では、今夜はこれで終わりましょう。延々と続く話の最後まで付き合ってくれてありがとう。奇跡の原理47〜50の解説は次回にしましょう。

お疲れ。

奇跡の50原理(その4)




ワシントン州キングストン郡
2002.08.28のACIM Study Group
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.10.11
英語原文
目次
acim.jp logo
K・ヤマダ訳
2011.10.11 大幅な改訂
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「わたしはクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
イエスキリストによるACIM解説:奇跡の原理、その3(42〜46)