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イエス、「自由」という概念の
誤りをさらけ出し、人生の
全自動モードの秘法を公開

(苦闘におさらば)

Raj Gathering
質問者:わたしはビジネスの面でも日常生活の面でも重大な岐路に立っています。ご指導をお願いできますか。《質問の要約》

ラージュ(=イエス・キリスト):今回の岐路はあなたの初めての重大な岐路ではないが、今までと違う方法を活用するように勧める。

先ず勧めることは、選べれる両方向を分析しないということだ。さらに両方向の良い点と悪い点のチェックリストを作らないということだ。

情報を一覧し、最適に見える方向についての自分の最高の判断に達することは、今回のアプローチに適さないからだ。

今回勧めるのは、あなたには自分の最良の方向を知るすべがないということを受け入れてみることだ。言い換えれば、あなたの最高の論理があなたを最良の方向に導くとは限らないということを受け入れてみるということだ。

でも、何でこんなばかなことをするのだろう。

だって、あなたは人の負担にならないように育てられたんだろう?人に頼らないで、自分だけで決定し、一本立ちし、自分に責任をもつように育てられたんじゃないか。




しかしそれにしても、単独で行動をとることは、自分の本来の生き方ではないのだ。

次のヒントをあげよう。

あなたは両親に育てられた経験があるじゃないか。この経験は自分が最終的に家を出て独立するためではなかった。この話はもちろん、理想的に言っているわけなんだけど、この経験は、世話をしてくれる人たちと共に生きることを体験するためにあったのだ。

この体験をしたら、解放と呼ばれるレベルに到達し、目に見えた両親から目に見えなかった両親すなわち父兼母である神に移ることができるようになっている。

エゴ範囲内の自分によれば、自分自身は単独で生きているということだ。しかも、万事が自分の最善の利益になるように、自分が自分の世界をコントロールしなければならないということだ。

しかし理解しなければならないのは...

前提が間違っていれば、結論も間違っているものだということだ。自分が単独で生きているという前提は間違っている。巧みに単独で生きる方法を学ばなければならないという結論も間違っているのだ。

人は単独で生きているのではないのだ。《=「目覚めた立場からみれば、人は単独ではなく、神および全同胞と結合して生きているのだ」》ゆえに、目覚めるのには、生命の無限性、すなわち自分の無限性と再結合しなければならない。

目覚めることは、悟りを開いた状態である実相正気に戻ることだ。

だから自分はいかなる経験があったとしても、単独で自分の最良の決定ができるようになっていない。しかも単独で決定をすることが適切でないのだ。今回の岐路では、このことを受け入れてみるように勧める。




エゴは、ガイダンスを評価するために、チェックリストを脳裏に作るというアイデアを持ちかけるはず。

こうなったら、時間を取って静かになり、次のことを言うのを勧める。必要であれば頻繁的にやればいい。「わたしの進むべき方向を知りたい。理由を聞いていない。ただ最適な方向を知りたいだけ」とだ。

そうしたら、最適な方向についてのはっきりしたぴんとくるコミュニケーションが意識的に感じられるために、支持してくれる個人性たちおよび聖霊に、そのコミュニケーションをしてくれる機会を与えるがいい。

さて、進むべき方向を早急に知る必要があるとエゴが横から口を出すはず。しかしそんな必要はない。あなたも分かる。

だからエゴがそれを暗示したら、ただ「黙れ」と言えばいい。エコと争ってはいけない。ガイダンスを聞いているときの注意の焦点の方にただ注意を向ければいい。

進むべき方向が明確になってからは、もっと早く知らせてくれなかった理由がまだ分からなければ、もう聞いてもいい。自分の個人的な理解のためにサポートがあるからだ。

イエス・キリストの引用


肝心なのは、言ってみれば、今回の岐路には、あなたは今後ずっと一緒に旅する友《=ガイド》をつくる機会があるということだ。だから、真っ先に選択することは、どちらの方向に進むかというよりも、むしろ今後ずっとこの友と一緒に旅するかどうかということだ。

生活をするためにもう骨身を削る必要はない。

自分の選択に対して一切の責任を負う必要はない。まして裁かれる必要もない。

言い換えれば、あなたは、まさに運動する権利の伴う自由を発見する所に立っている。この「運動する権利を伴う自由」とは、自分の選択について他人の意見を歯牙にも掛けなくてもいいという意味だ。

他人は意見をもつだろうが。しかしあなたは彼らの意見に反応する責任を感じる必要がなくなるのだ。

恐れなしで前進することはあなたの生得権、すなわち生まれながら持つ権利だ。他人の思惑に対する恐れなしで、起こり得ることに対する恐れなしで、過ちを犯しているのではないかという恐れなしでということだ。

恐れなしというのは、いつ体験できるかというと、単独で行動しようとしていないときにだ。

さて、ここでは、この答えを一般化する。なぜなら、「自由」というのは、実際にごく簡単なのに、大変複雑そうに見えるからだ。誰も彼も、自分の自由を表現して自分の縄張りを持つために、権利を獲得できるように戦っているのだ。

この現象をもたらす本当の根本的な理由がある。けど、あなたにはそれを取り違える癖がある。

両親の思惑からの自由だろうと、配偶者の思惑からの自由だろうと、社会集団の思惑からの自由だろうと、教会の思惑からの自由だろうと、自分の自由のための自分の戦いについて根本的に本当なのは、自分の生得権だ。

イエス・キリストの引用


要するに、誰に対しても意を迎えなくてもいいということは、自分の生得権だ。誰も彼もが知性に対する概念をもち、無理やりにあなたを従わせようとしているが、あなたは我を折る必要がないのだ。

あなたたちが知っているように、芸術家は流行しているルールを破るものだ。そのためにこそ、芸術が有意義になっている。芸術は人の目下の概念に順応しないものだ。

その結果、新しいものが自分の内部経験の中に入るので、自分が新しい見識を得て感動するものだ。芸術家たちが、いわゆる「芸術的自由」の目下の形式に捕らわれなかったからだ。

生命という運動は、芸術の運動だ。また創造の運動だ。あなたはその運動そのものだ。

あなたは、身体としてではなく、意識のある認識としては、存在する唯一の心である神の心の運動の臨在そのものだ。言い換えれば、万物の原動力とでも言える永遠の知性の運動の臨在そのものだ。よってあなたは、認識と呼ばれる、心の運動だ。

さて、自由とは何だろう。

ほとんどの人は、それを、ある所から抜け出ることだ思い込んでいる。しかし本当は、自由はある所に入るということだ。心の自発的でオリジナルかつ斬新な運動である、創造の運動に入ることが自由なのだ。




ほとんどの人は、自由を得ようとするためには、ある所から抜け出ようとしている。ところが、ある所から抜け出るためには、その所とかかわらなければならない。自分の立っている場所から離れたければ、グリップ力のいい靴を履いていなければならない。

ツルツルの氷の上に立っていれば、大変だぞ。

地面を蹴ってはずみを付けなければ、踏み出せるわけがないからだ。ある所から抜け出ようとがんばり続ければ、とどのつまりその所にすっぽりとはまってしまうものだ。抜け出たい所から、入りたい所のほうに注意を移すことがわたしの勧めだ。

これはパラドックス。

自分の存在という運動の自由がことごとく独創的になることを選択すれば、結局自分はかぶとを脱ぎ、神の御意(みこころ)の中に入ることになる。創造の運動の果てしない経験の中に入るとは言え、その経験に逆らえる自由を失うものだ。

早い話が、選択肢がない場に入っていることになる。だからパラドックスなんだ。これを「自由の喪失」とエゴが名づけている。

しかし理解してほしいことがある。

存在する唯一のものから独立して行動することでは、自由をすでに喪失してしまっている。

森羅万象と合致しないで、単独で行動しようとする試みでは、自分の全体を経験する自由を喪失してしまっている。

自分の喜びを経験する自由を喪失してしまっている。

受けるべき豪華な歓迎を経験する自由も喪失してしまっている。この歓迎は、例えて言えば、盛大に迎えられている高官の前に広がっていく赤じゅうたんの歓迎式典のような感じだ。じゅうたんの色は赤の代わりに、「進め」という意味のグリーンになっている。あなたもこれを経験すべきなのに、この自由を喪失してしまっている。

そればかりか...

人生の苦闘にかかわるようになってしまった。人生の苦闘は、限られた知覚の立場だけから見れば、もっともらしく見えるものだ。当然ながら、人生の苦闘を人生の意義だとエゴが言い張っている。

この苦闘にかかわると、恐れのない実相を経験する自由を喪失してしまう。

自分の傷つき得ない性質の経験を犠牲にしてしまう。




しかし、抵抗せずに本当の自由の中にすーっと沈み、選択というオプションがなくなると、もう一つのパラドックスに遭遇するものだ。それは自分の力を経験することだ。

この力というものは無限で遍在する、すなわち同時に至る所に存在する。遍在するからこそ、働かされる必要がない。

よって、自分の力を経験することを、無力を経験することだとエゴが決め付ける。自分の力を働かせることによって達成感を得る手段がないからだ。これでエゴが満足しない。自分のやっていることに誇りを持つことができない。

ところが...

遍在する力を経験することは、傷つき得ない性質を経験することの一面だ。身を守るように思わせる面影も微塵もなく、傷つき得ない性質を経験することは、自分の完全性を経験することだ。

この経験が有意義なので自分が法悦し、正気を取り戻したことに気が付く。

よって、それを、「自由」また「力」というトピックが浮かんでくるときに、考慮に入れるようにあなたたち一人一人に勧める。

求道中のあなたたち一人一人は、ある期待感を自分の前途に投じる傾向がある。この「期待感」を「暗がり」と呼んでもおかしくない。ある意味では暗がりそのものだからだ。この期待感は、新しく得る洞察や啓示が自分のすでに経験している事柄に関連し、それを改善するということだ。

これは無限性をふるいにかけているようなことだ。これで無限性の制限され得ない本性は、あたかも構造化されたように見えてしまう。

とどのつまり...

路を開くことも、足かせをこじ開けることも、本当の自由を経験することも、限界性が広がっていくパターンの続きとして知覚されてしまいがちだ。

パターンが改善されたのですばらしくなったとあなたは言うけど、わたしが勧めるのは、この期待感を手放すことだ。そうしたら接近して来る無限性の全体的な影響ないし意味は、著しく自分を限界性から運び出すことができる。

イエス・キリストの引用


あなたたちは、通常は、自分の意志の表現力を強化するという目的で、神の御意(みこころ)に接続したがっている。ところが、神の御意に接続した実際の結果は、現時点で自分の意志と思われるものは、改善されるどころか、消滅するのだ。

それが妄想による産物だからだ。

自分の存在という運動の臨在と力と自由を経験することは、あなたたちの本来の生き方だ。これで父からの分裂感が全くなく、父と合体で創造という運動を経験することになる。

しかし自分の意志という妄想の産物では、このようにならないのだ。

まさに今日ここに、あなたたち一人一人は悪戦苦闘している、死を免れない人間になるためにいるわけではなく、父と同様に創造の運動を経験するためにいるのだ。あなたたちは創造の運動である父から分離されたものでもなく、創造の運動である父と異なるものでもないからだ。

それこそあなたたちの正体だ。さらに慎重に言うけど、実際には神があなたたちの正体だ。

目覚めというのは、自分がその運動そのものだという意識的な経験の中に入るということだ。

いいかい、頭で理解したという意識的な経験の中に入るということは目覚めと言えない。頭で理解したことは、実相と違って、知識すなわち知的材料にすぎないからだ。

さて、あなたは生まれてきた中で一番いい岐路に立っている。足下に火が付いていないようだし、選択肢の場に立っているようだからだ。




だから、どちらの選択肢が目的の達成と調和しているか探る前に、自分の運転している車を道路の分かれる所まで近づかせるがいい。

止まれ。

窓の外を見ろ。

そこに立っている人を見ろ。

旅路の残り部分を共にするために、その人を招き入れるがいい。そうしたら自分の目的の達成となる、自分の中での神の運動を共に探れる。道路の分かれる所から新しい方向へ出発したら、この友にも車を一緒に運転させてやるように勧める。

そうしたら次のことが言える。

「進む方向については、僕は素直に手引きに従うけど、コントロールを残らず手放しはしない。というのは、加速するか減速するか、また、この車に乗り続けるか別の乗り物に乗り換えるか、というような選択肢を自分で選ぶ権利を留保する」と。

選択を犠牲にすることは、一方では好ましくないようだ。

しかし他方では、あなたが正気を取り戻しているということになる。そうなれば、混乱がことごとく消えうせる。その上、あなたはいつも、「観よ、われ一切(すべて)のものを新たにするなり」《ヨハネの黙示録21:6》ということの発端に乗っている喜びを経験するということになる。

なぜ?

あなたは単独の存在ではない。しかも創造の運動となっている、あなたの本当のアイデンティティーを構成しているものから分離されていない。だからだ。

あなたたち皆に言うけど、それを考慮に入れてほしい、否、それについて考えないようにして、心の中に、つまりフィーリングの中にととめてほしい。

このときのフィーリングを定義しようとしてはいけない。ただこのフィーリングと共に静かにとどまればいい。そうすればあなたの先入観というふるいでろ過されないで、このフィーリング自らが自らに光を当て、自らを定義してくれるのだ。

イエス・キリストの引用


以前にも言ったように、わたしの言っていることが曖昧、または把握しづらいと思っても、気にしなくてもいい。あなたを巻き込む、目覚めへの運動がすでに行われつつあるからだ。

そればかりか...

応援もあるよ。創造の運動を経験するために、あなたの中ですでに運動している増えつつある応援だ。わたしが話しておいたので、この応援があなたの中でもっと本格的に生じてきたら、あなたは「あっ、応援だ」ともっと簡単に気付くはずだ。

応援だと分からなかったら、びくっと泡を食ってしまうものだ。しかし応援だと分かれば、応援されながら、なごやかに流れることができる。

また以前にも言ったように、わたしがここにいるのは、人生を改善する方法を教えるためにではない。人生が改善されつつあることを知らせ、それを見逃さないように勧めるためにだ。そうしたらあなたたちがその改善の流れに便乗することができる。

あなたたちは自分の人生を自分で作り出す必要はない。

無限の実相存在という運動、すなわち意識的経験の運動は、すでに行われ、あなたたち一人一人の全体を構成しているからだ。全体性を自分で無秩序から作り出さなければならないという信念は狂気。自分の全体性はすでにあるからだ。

抵抗せずにこの全体性の中に沈む意欲を抱くことは目覚めへの道。




オーストラリア国ゴールド・コースト市
1993年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.1
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
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「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
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「イエス・キリストは語る」
イエス・キリスト、「自由」という概念の誤りをさらけ出し、人生の全自動モードの秘法を公開