イエス・キリスト   ACIMとは   目次 
イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など

イエス・キリストが明かす

「時」という罠を脱出する方法

(心配事が跡形もなくパッと消え去る)


質問者:わたしは気に入ったマッサージ専門学校に通っています。前途はどのように展開するでしょうか。どんな機会が待ち受けているでしょうか。《質問の要約》

ラージュ(=イエス・キリスト):単刀直入に言うけど、あなたの充足は「前途に待ち受けている」というものではない。また次の段階にも、10番目の段階にも待ち受けているものでもない。

充足というものは自分がいる瞬間の中にあるものだ。自分の意識は自分がいる場所に、余すところなく自然に沈もうとしているのだから、そうなるようにさせてやればいい。

あなたの質問は、川が次のことを言っているようなものだ。

「前方の曲がり角を曲がった後の様子がまだ見えてこないよ。自分がそこを曲がる前に、自分がどうなるか知りたい」とだ。または、「前方の曲がり角を曲がれば、どんなメリットが待ち受けているのか知りたい。知らせてくれなけりゃ承知しないぞ」とだ。

愚の骨頂じゃないか。

川というものは自ずから止まるわけがないからだ。あなたのことも、止めるに止められぬ運動なんだぜ。

水を観察することで、すばらしい教訓が得られるということを諸君に指摘したい。水は自然に下がって海や湖に注ぐものだということは、だれもが知っている。ポイントは、水はコントロールをいささかも働かせないということだ。

森羅万象の成り行きのままに、水は自然に流れるように無抵抗になっている。川の水が崖に流れ着くと、自然界の成り行きに任せてドドドド〜ッと落下し、川と異なる美しい物に変貌する。

イエス・キリストの引用


滝になっているのだ。そして墜落して元の形になったら、また川になる。絶え間なく動いているものだ。

さて、天地創造を行うことで、神は目的地へと向かってはいない。

だからあなたは目的地へと向かっているわけがない。神は今という瞬間に存在しているところだ。何かになりつつあるものではない。だから神の運動は今存在しているところの運動だ。

神は、全体的な運動だ。また全体性の運動だ。

さて、それを今会得すれば、今会得しなかった場合に比べたら、あなたの人生は今後50年間信じられないほど変わってくるはずだ。

明日のことを明日自らが告げてくれるようにせよ。

川の曲がり角を曲がった後の様子については、あなたがその所に着いたときに、その様子自らが告げてくれるようにせよ。繰り返すけど、自分が今いる所では、あなたも川が行動すると同じように行動すればいい。

川は自然に川床に据えられるように無抵抗になっている。また川底に支えられるように無抵抗になっている。

よろしいか。

川は、「この辺りでは細くなりたい」と言って、自分自身をきゅっと締め付けたりはしないだろう。その時点の環境の中で、自らの存在がことごとく据えられるように無抵抗になっているものだ。




岩の多い狭い渓谷に着いたら、するするっと岩間を突進し、じゃぶじゃぶっと跳ね上がり、きらきらっと日差しで輝くものだ。なかなか立派なもんだ。

なぜ?

水はそのようになると自ら決めたからではない。かえって、その瞬間その場所によって自然に包まれるように無抵抗になっているからだ。しかも森羅万象の成り行きにコントロールを譲っているからだ。

森羅万象の成り行きにコントロールを譲っている大人は少ない。

概して言えば、人々は、世界のことが根本的に混沌としているものだと信じ込んでいる。それで秩序を押し付けなければ気が済まない。

それは狂気の沙汰だ。

人々が真っ先にやるのは、「自然的な秩序がない」と決め付ける。そしてそれが本当だと思い込んでしまう。その結果、自然的な秩序があるということを発見するまでにコントロールを手放す人はほとんどいない。

今日が明日へと導くようにせよ。

前途のことはあなたの気にすることじゃないからだ。あなたも川のようになれ。いつも自分がいるその瞬間にとどまるようにせよ。その瞬間それ自身にコントロールを譲るようにせよ。

またその瞬間によって包まれるようにせよ。それは、自分がいるその場所に自分の意識を完全に据えることができるためにだ。

では、次のことを聞かせてくれ。

ちょうと今、神はをあなたに次のこと告げたとするよ。「お前の完全無欠な視力をどうぞ。受け取りたまえ。これは森羅万象に対するお前の目覚めた知覚だよ」と。

あなたは明日のことにどれほど気を取られるだろうか。また、明日のこと、すなわち今日が引き入れようとしていたところの有り様に、気を取られることはどれほど賢明だろうか。

イエス・キリストの引用


前途のことを考えなくてもいい。また現在が引き入れようとしている状況を考えなくてもいい。時間という観点から考えるのをやめるべきだ。

自分が今いる瞬間の状況を変えようとするべきではない。またその瞬間から逃げようとするべきではない。かえって今という瞬間の中に、自分の意識が自然にことごとく沈むようにするべきだ。そうすれば、その瞬間の特性が変わってくるものなのだ。

では、「時間線」という環状線を思い描いてもらいたい。

この環状線は過去から未来へと続く道路になっている。あなたはこの環状線上にある一箇所にとどまり、そこに自分の体重をでんと据えているとする。

そうすると、ちょうどこの一箇所に、ポカッとじょうご状の大穴が開く。あなたはこのじょうごの中へとずるずるとずり落ちていく。沈めば沈むほどじょうごがすぼまる。

ここでは、じょうごがすぼまることは、あなたの注意が今までほど散らばっていないということにたとえている。これは、別の角度から見れば、自分がいる瞬間の奥へと、自分の意識が沈めば沈むほど、自分の実相の前にますます近づいているということだ。

さて、すぼまった部分の先には開口部がある。

じょうごを通して沈んでいる間に、注意がそのすぼまっていく範囲内にとどめられている。しかし開口部を抜けたら、無限性の内に落ちて、からりと眺望が開ける。

無限性にはもう時間線がない。

でも永遠というものの空間が一遍に見えてくる。時間線はその空間に吊るしてあるので、見上げれば時間線を見ることができる。この立場から時間線を見上げれば、「わあー!僕が経験していたのは、そこのちっぽけな部分だけだったのか」と目を丸くして言うはずだ。

それだけではない。

じょうごを通り抜けたら、もう一つの事が起こる。自分の意識が自分の実相の前に下りているので、他人や他事に気を取られていない境地に至っている。




こうなったら自分の実相に対する知覚は、絞り込まれるようになっている。この知覚をもって、自分はじょうごの開口部を通り抜ける。通り抜けたら、永遠というものを囲んでいる自分の実相を経験するものだ。「絞り込まれた知覚」というのは、本当は「知覚の統合性」だったのだ。

さて、わたしが今語ったことは、アイデアとしてはすばらしい。

しかし応用するのには、どうする?

自分が直面している状況の中に、自分の意識は自然に下りようとしている。その状況がどのようであっても、その状況がどこに至ろうとしているのかあれこれと考えないで、意識がその状況の中に下りるように容認することだ。

なぜ?

環状線を走行しながら前途のことについてあれこれと考えるより、環状線による束縛から解放され、全体性を経験した方がいいからだ。

さて、「人生」や「世界」、「宇宙」などと呼ばれるものに対しては、解釈が多い。しかもそれにつける定義が多い。それにもかかわらず、実際に行われていることは現実の実相だけだ。

天国とも呼ばれている。

「現実の実相」や「天国」というのは、異物が一切含まれていないものだ。また、それ自体と対立するものが一切ないものだ。かつまた、混乱やカオスを体現できない、また表現できないものだ。

あなたの意識は、あなたが経験している日の中にことごとく自然に沈もうとしているものだ。またあなたが関わっている活動の中に自然に注がれようとしているものだ。思い切ってそうなるようにすれば、人生の自然の調和、すなわち現実の自然の調和は、確認されるようになるのだ。

わたしが語っていることを本当に理解すれば、あなたは度胸を据えて、明日のことを気にしないで暮らせるはずだ。それで自分が入っている今という瞬間を可能な限り豊富に経験するものだ。

それだけではない。

自分の意識が自然にその瞬間の中に下りようとしているので、そうなるように容認すれば、その瞬間の中に生じてくる小さな隙間を通り抜けることができる。




通り抜けたら、洞察を経験するものだ。その洞察で、世界が本質的に有意義だと気付き、自分は世界の中でもっと有意義な存在になるものだ。

あのね、この部屋には、あなたより年上の人が何人もいる。

あなたの目から見れば、その人たちのほとんどは、あなたよりはるかに偉大な知恵を持っているように見える。彼らはそれぞれの状況では、次のことを言わざるを得ない時期に達そうとしているところだ。

「存在する理由は、結局人生の厳しい生存競争ではなかった。偉業を成し遂げることでもなかった。自分の安らぎは結局そういうことにはなかった。そういうことを手放さなければ、その安らぎが経験できない」と。

それに、「自分の安らぎは自分が入っている瞬間にあるのだ。この安らぎの中では、見通しが明瞭になり、何が適切なのか知ることができるので自分は、本当の意味で有意義になれる。この有意義さは自分が管理しているようなものではない」と。

さて、あなたは時間線、並びにそれに伴う獲得や功績という考え方の中に引っ込まれるように、長年ならされてきた人ではない。しかしあなたの質問はその傾向の始まりを表している。

分かる?

だからわたしが言っているのは、「その傾向に用心しろ」ということだ。

次のエピソードを伝えたい。

某ボウリング・チームには新しい仲間が入ったところだった。このチームは、場数を踏んできたが名門ではなく、ただボウリングを楽しむ連中だけだった。

今回はほかのチームに対戦することになっていたので全員は張り切っていた。「すばらしい出来栄えをひけらかそうじゃないか」とか言い合って試合に臨んでいた。

ところが新しい仲間は、「あたしはボールをレーン上に投げるだけのつもり」と言っていた。これは、当たり前のこと以外の目標や目的なしで、意識を自分の実相に据えているということだ。

それでどうなったと思う?

ほとんどの投球で彼女はストライクを取ったよ。彼女がやっていたのは、レーン上にボールを転がすという単純な行為に、意識を向けていただけだったからだ。

よろしいか。

人生は大体の人が思うより頼もしいものだ。しかも今のところでは、あなたはその頼もしさをそれほど否定していない。

わたしが勧めているのは、人生の頼もしさをしっかりと信頼し、川のようになる意欲を失わないようにすることだ。そして森羅万象の成り行きにコントロールを譲るということだ。




ワシントン州キングストン郡
1995.6.25集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
ACIMロゴ
acim.jp
「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが明かす「『時』という罠を脱出する方法」(心配事が跡形もなくパッと消え去る)