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イエス、「未来」という妄想を一掃し、「目を見張るような事柄を生じさせる方法」を明かす

Raj Gathering
質問者:..《前置きを飛ばして》...あたしは自分のガイドが指摘してくれることを素直に認めることができます。ガイダンスに従って行動することもできます。しかも、どのように展開しようとも、自分の将来を甘受することができるつもりです。なのに前途のことに関しては何も知らされません。知りたくてじりじりするのにね。それでこちらに・・・

ラージュ《=イエス・キリスト》:あのね、神も得られないものを欲しがることはむちゃだよ。

質問者:神も得られないものって何ですか。

ラージュ:前途のことを知るということだよ。天地創造は、計画によらない自発的に新しいものだ。でなければ、古い事柄、すなわち既知の事柄の繰り返しになる。

()よ、われ一切(すべて)のものを新たにするなり」《ヨハネの黙示録21:6》という聖句は、神のモットーだと言える。

そればかりか。

神の存在という運動の本性そのものだ。ゆえに天地創造の運動の本性そのものだ。そういうわけで、前途のことを知りたがることは、神も知らないことを知りたがることだ。天地創造そのものの本性は、かつてなかった事柄を引き起こすことだからだ。

質問者:そうならば、人は、まだ起こらないことを期待できないじゃありませんか。

ラージュ:あのさ、ポール君《P・タトル氏》も、前途のことについて質問することがある。たとえば、「集会に何人が実際に参列するだろうか」とかだ。「食料の用意など準備ができるためにご返答をお願い致します」と招待状にはっきりと述べてあるのにな。

イエス・キリストの引用

そんな場合には、わたしは最大の可能性を知らせることはする。だけど、未来の出来事については、絶対的な解答が出せない。なぜなら、未来のことについての話は、進行中の要素をすべて勘定に入れてから、最大の可能性を伝えるだけのことになるからだ。

どうせ未来の事柄を知らないほうがいい。

わたしがポール君と話し合うようになって最初のころには、世界中に旅し、大勢の前で話すとわたしが知らせたなら、ポール君は生きた空もなかっただろう。彼は社交性がそれほどないからだ。

わたしたちが論争の巻き添えを食うはめにならないかと聞かれたら、わたしは「そのことない」と答えた。そしてわたしの予想通りになった。

しかしその後、わたしが打ち明けたのは、わたしたちが論争を巻き起こさないとは言っていないということだ。論争を巻き起こすと知らせたとすれば、ポール君はたじたじとなっただろう。

人生とは何ぞや。

人生はサーフィンのようなものだ。過ぎ去った事柄と前途の事柄との間、すなわち既知と未知との間という波に乗っかれるようになるものだ。しかも優雅にだ。波がどこへそれるか知るすべがない。なぜなら新たに創造されつつある天地の先端に乗っかっているからだ。

それはどういう意味だろう。

人は何かを成し遂げている存在でもなく、目標に向かっている存在でもない。ただ天地が創造されているところの現場を観察する存在だけだ。早い話が、人生は神の運動を常に観察するようになるということだ。

さて、それは具体的にどういうことだろう。

イエス・キリストの引用

いろんな現象として現れるが、例として次のエピソードを語ろう。

スーザンさん《P・タトル氏の奥さん》は、食料雑貨店でコーヒーとドーナツという軽食をとるつもりで出かけた。ところが、なんとマイホームを持って帰った。

当時、ポール君の銀行口座には8百ドル《平成12年にて約8万円に相当》しかなかった。しかも高価な家屋を購入する手段がまったく視界になかった。なのに、「この家屋を購入するために5百ドルの手付金を支払え」とわたしはポール君に勧めた。

それを聞いてポール君は耳を疑った。可能と不可能を見分けるポール君の当時の考え方では、そんなことは不可能だったからだ。

まさに、マイホームを手に入れたことは奇跡の波に乗っていたように見えた。

これで諸君に知ってほしいのは、あなたたち一人一人にとっても、状況ががらりと変わる可能性があるということだ。しかもその見込みは、わたしがただ今語ったエピソードの程度より上回っている。

ポール君も、父の存在という運動をもっと、自分の意識的経験の中に受け入れられる余地がある。だがそのために、可能性の限界を巡る考え方を放棄しなければならない。けど、それがまだまだできるようになっていない。

その考え方を放棄する唯一の方法は、自分が経験しているところの場面に、意識をことごとく持ち込むことだ。スーザンさんがコーヒーとドーナツを注文していたときのようにね。

わたしの言っていることが分かる?

取るに足りないような場面にも、意識をことごとく持ち込むなら、その場面で目を見張るような事柄も起こり得るということだ。

質問者:あたしもそれをやっているつもりですよ。目を見張るようなことが起こると信じています。しかし起こるのが待ち遠しくてたまらりません。神からの導きに従うことによって、自分の人生に喜びと充足を早く表したいからです。

イエス・キリストの引用

ラージュ:だから言ったじゃないか。取るに足りない場面にも意識を持ち込むことだ。要するに、自分が経験しているところの場面を好奇心で、すなわち快く新鮮な目で見るようして、その場面に意識をことごとく持ち込むこと。そして焦燥を手放すことだ。

質問者:どうやってするんですか。

ラージュ:ガイドとのコミュニケーションに対して、思い切って喜びを示すことだ。それから「我が(こころ)にあらずして御意(みこころ)の成らんことを願ふ」ということを実行することだ。

質問者:なるほど。

ラージュ:焦燥というのは、「我が(こころ)」、つまり自分の意志だ。だから「御意(みこころ)の成らんことを」ということを実行するときに、「我が(こころ)にあらずして」という部分を付けるのを忘れてはいけない。焦燥を感じていることに気付いたら、その焦燥をつぶすのだ。ぺしゃっと!

神を手玉に取ることができない。

だから選択の余地はない。手は一つだけだ。それは神に仕えるということだ。要するに、神の都合に合わせて、神の存在という運動に気を配るということだ。

質問者:それこそ、あたしのジレンマです。神の都合に合わせることで焦燥を感じてしまうのです。

ラージュ:あなたは、「神の都合」と「自分の焦燥」との板挟みになっているようにしゃべっている。ところが焦燥を感じている「自分」というものは、存在しないのだ。

質問者:じゃ、気にしないということですか。

ラージュ:その通りだ。「神、早くせんかい!」と言っている「自分」というものが存在するとあなたは思い込んでいる。あなただけではなく、あなたたち皆もそうだ。




ワシントン州キングストン郡
2002.03.03集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文
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K・ヤマダ訳
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「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリスト、「未来」という妄想を一掃し、「目を見張るような事柄を生じさせる方法」を明かす