イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など
イエス・キリスト   ACIMとは   目次

イエスキリスト、チャネリングされ、十字架の驚天動地の真相を語る 

教会の見解は迷信?


質問者:キリストの死にはどういう意味があったんですか。

ラージュ(=イエスキリスト):何?「キリストの死」だと?
Raj Gathering
かいつまんで言えば、あの出来事はちょうどポール君《=チャネラーのP・タトル氏》が今経験しているようなものでした。

あの出来事は、神のみこころがこの世の無知というもやもやを貫くための手段だった。これを行うために、自分はそのもやもやを仮に認めて、その中に飛び込んだんです。

それで自分の成長が促されたわけでもなく、自分が偉くなったわけでもない。

自分にとっては無用だったんです。

とは言っても意義がなかったわけではない。あの出来事の四六時中、自分はずっと愛を実践していたのです。愛の行為は有意義なわけです。

イエスキリストの十字架刑

ぶっちゃけ、自分が十字架にかけられた時間はそれほど長くなかった。

意識を失ったように見えた時点で、実際は、わたしは自分の肉体からすーっと離れていった。近くの丘の上で立ち、群衆があれやこれやをやっているいきさつを観察していた。ずっとだ、墓の戸口の石が転がしのけられる2時間ぐらい前まで。

そこで自分の肉体に戻ったが、そのとたん、自分の肉体は分子的にアップグレードされた。

イエス・キリストの引用

要するに、肉体として知覚されるための圧縮状態が解除され、ぴか〜っと放射し、ライトボディに転換したわけです。この放射のインパクトで自分の肉体を包んだ布の繊維に、自分の風貌が打ち込まれた。

はい、この布は、盛んに討論されてきた、あのトリノの聖骸布なんです。あの写しは自分がわざと焼き付けたわけではなく、自然にそうなったんです。

トリノの聖骸布
トリノの聖骸布

自分のライトボディに照りつけられて、墓の中はきんきんきらきらって感じだったよ。自分は2時間くらいとどまってから墓を出た。

いいえ、自分は絶望したりはしなかった。あの一連の出来事の一から十まで、ずっと自分の平安の中にどっぷりと浸かっていたんです。「わが(かみ)、わが(かみ)、なんぞ(われ)見棄(みす)(たま)ひし《マタイ伝27:46、マルコ伝15:34》」という聖書の記述はでっち上げですね。

わたしはそんなこと言ってない。そんな弱音を吐く心境に陥っていなかったわけです。

ポール君なら、集会を開催したり、わたしの話を英語で表現したりしていますが、こんなことを行っている間は、彼はずっと自分自身の平安の中にどっぷり浸かっていますよ。

イエス・キリストの引用

十字架関連の出来事にかかわっている間中、わたしも同じようになっていたんです。

よく聞け、諸君。人が本当にわたしを殺せるという妄想にふけっていたら、わたしは土になったはずです。しかも自分の復活も昇天もなかったはずです。

でも実際は、わたしは死ななかった。

はい、あの死はただの錯覚だったんです、この世から見た錯覚。だから誰もがそれで有罪になったことはあり得ない。わたしは意識を失ったことも、正体がわからなくなったこともなかった、一瞬たりとも。

十字架に掛けられたとき、自分の肉体から離れた間にも、自分の個人性を現わすものはずっと自分に伴っていたんです。この世から見れば、それはつかめられない、不気味なホログラフィ映像みたいな感じのものだった。でもちゃんと自分に伴っていたんです。

と言っても、この事柄はあくまでもこの世から見た様子だった。実相世界から見れば、わたしは自分の体から離れたりはしなかったわけですね。

さて、わたしは十字架に掛けられたとき、ある重要な発言を反復していた。それは今の今まで理解されていない、わたしが今まで一度も解説しなかったものだ。こう発言した。

(ちち)よ、(かれ)らを(ゆる)(たま)へ、その()(ところ)()らざればなり《ルカ伝23:34》」と。

これは群衆を罪から免除する目的の発言ではない。

トリノの聖骸布
トリノの聖骸布

彼らにはわたしに対して罪を犯すすべがなかったからだ。彼らの罪は錯覚だったんです。群衆はわたしをあの十字架に掛けたりしたように見えた。しかしそれはこの世から見た錯覚だけで、実相的には彼らは何もやっていなかったわけです。

「その為す所を知らざればなり」とは、群集は自分たちが何もしていないということに気づいていない、という意味だったんです。

「父よ、彼らを赦し給え」と唱えていたのは、彼らが罪を犯していないということを、彼らの受け入れられる言い回しで、彼らの耳に入れるためだったんです。

しかし、数知れぬ人々はその出来事のために罪悪感を覚えている。神の一人子を殺したので自分たちがその十字架を負うべきだという羽目になった、と教え込まれてきたからだ。

その当時だけではなく、その当時以来ずっとだ。1392年にも。今年1992年にも。

これは実に悲しい。

この罪悪感はあなたたちの天与の喜びに対する侵害なんだ。

正当性のない侵害だ。

根も葉もない重荷だ。

信じ込まれた架空にすぎない。

もうこの肩の荷を下ろし、せいせいすればいい、本当に。

さて、今日と違って2千年前の当時では、本物の神については、人々の大半は無知だった。本物の神の普遍性と愛という本性について聞いたこともない。

もやもやした迷いがこの世、すなわち衆生界をすっぽり覆っていた。森の神やら川の神やら岩の神やらで、ピンからキリまでの架空の神々でごったがえしている体たらく。

この迷いを通り抜け、衆生界を啓蒙する必要があったんです。

わたしが肉体をもってその当時この世に登場したのは、その啓蒙を行うためだったんです。

そのほかに、啓蒙すべきことはもう一つあった。

それは、あなたたちはみんな、わたしの兄弟姉妹で、わたしと同等で、永遠の命を神から受け継いでいるということです。わたしも、あなたも、この世のすべての人は神の子だからですね、その当時でも、今日でも、いつでも。

イエス・キリストの引用

だけどこれは言葉だけで啓蒙できるようなものではなかった。

なぜ?昇天した人の前例がほとんどなかったこともあって、生命のことを物質だとすっかり信じ込まれていたからです。自分たちのことを物質の塊であるかのように知覚され、遅かれ早かれ虚空に消えていくつかの間の存在だと確信されていたわけです。

この迷いを通り抜けるために、生命の永久性を衆生界の目の当たりに見せ付けるしかなかった。

そのために、あのはりつけの刑が行われたんです。

実相世界から見たら、わたしは死ななかった。だけどこの世から見たら、自分の肉体は冷たくなり、紛う方なく死んでいた。

そこで自分の復活が行われた。あの冷たくなった肉体に鼓動が戻ったのだ。空気を吸い込み、目を開け、むっくり起き上がり、自分はよみがえったわけです。

人々は生命をはかないものだと思い込んでいたが、わたしの復活を見せ付けられて泡を食った。知性というものも、生命というものも、自分たちの知覚できる範囲を超えているということを思い知ったのです。

トリノの聖骸布
トリノの聖骸布

しばらくするとわたしの昇天が行われた。この世から見れば、わたしはひゅーっと空に舞い上がり、見えなくなったのです。

これで二つの目的が果たされた。

一つ目は、テレポーテーション、すなわち乗り物なしでの移動が可能だということが証明された。これを知っておくことは重要。なぜなら世を去る前に目が覚めたら、あなたたちもテレポーテーションで移動するからだ。

いいえ、ふざけて言っているのではないぞ。肝に銘じとけ。

もう一つは、衆生界の知覚を超越した事柄の存在が明らかになった。これを知的レベルで伝えられないので、群衆の目の当たりに見せ付けるしかなかったんです。

こうして神に対するもっと道理にかなったイメージが衆生界の迷いを通り抜けた。実相というものが人々の狂った知覚を通り抜けたわけです。こういうのは、神からの啓示というものですよ。脳裏に焼きつく啓示。

こうして衆生界の目を覚ます基調が打ち出された。

と言っても、この真相が捻じ曲げられる羽目になった。というのは、処刑されたのは神の一人子だと伝えられるようになった。そこで人々は反省して罪悪感を覚えるようになったのです。

よく聞け。

わたしは確かに神の子。だけど神の一人子ではない。

あなたも同じく神の子。あなたの本当の源は父なる神だけなんです。あなたのことは神の現れ以外の何物でもないわけです。

わたしだけが神の子だとすれば、残りの人類はそうでないということになるじゃないですか。しかもあの群衆がその神の一人子を殺したということになる。めっぽう重い罪ですね。

イエス・キリストの引用

しかし群衆がわたしを殺したように知覚されても、実際はそうではなかった。わたしは死んだりはしなかったわけです。だからそのことであなたが十字架を背負うことはただの骨折り損。

笑いをかみ殺したけど、あなたの「キリストの死」という言い方は滑稽に聞こえた......
1992年、アイルランド共和国ダブリン市

Raj Gathering
質問者:あの十字架刑の一連の出来事の中では、苦痛をお感じになりましたか。

ラージュ(=イエスキリスト):いいえ、全然。

わたしはあの一連の出来事の成り行きの形だけを演じただけなんです。要するにこの世の無知というもやもやを仮に認めただけです。仮にですね。飲まれたわけではないですね。

自分のことを衆生界の条件で解釈していなかったわけです。

自分は神との一体性を生で経験していた。

自分の存在がそっくり神に構成されているということをはっきりと意識していた。だからあの一連の出来事が実際に行われたのではなく、衆生界で知覚された錯覚の中で行われたということは、自分にとっては明々白々だったわけです。

イエス・キリストの引用

でも実際に行われていなくても、この錯覚は、わたしが衆生界の人々を啓蒙するための舞台だったのです。

いいえ、あの十字架刑が起こることに対して、わたしには抵抗感がこれっぽちもなかった。

説明しましょう。

あなたたち一人一人は、求道中で、それぞれの目覚めに向かっていると思い込んでいますね。

自分たちの目に映っているのは何でしょう。

目の前に輪になって座っている人々でしょう。にこにこする人もいれば顔のくもった人もいる。のっぽもずんぐりも、デブもガリガリも、さまざまな体型がずらっと、ある道場の中で、ある街の中で、自分たちの惑星のどこかでね。

求道に役立つだろうと思って、あなたたちはこのワークショップに参加している。わたしがあなたたちを手伝っているように見える。

ところが実際はそれは錯覚なんです。

あなたたちは皆、今、ここ、天国の只中にいるのです。天国の眩いばかりの華麗な環境の中で座っているのです、一度も暗くなったことのないライトボディの姿でね。きら〜〜っと輝いているよ、あんたたちは。しかし自分たちの視力ではこれが知覚できない。

自分たちが求道している、また目を覚まされる必要があると思い込んでいる。

しかし実相世界の観点からは、そうではない。あなたたちのことは、明らかに父なる神の現れにほかならない。今も堕落していない。一瞬たりとも堕落したことがない。

イエス・キリストの昇天

この世でのあなたたちの経験は実際に起きているのではない。仮想なんですよ。自分たちが眠っているという仮定で、想像の中で起きているわけです。

これは寝床で見る夢のような現象だ。その事柄がまざまざと見えるだろうけど、それが実際に起きているわけではない。

あなたは目が覚めたら、それに気づくはずです。

あなたたちは堕落していない。一度も堕落したことがない。今も神の百点満点パーフェクトな現れだ。だからこのような話をしているわたしの行為は狂気のさたのようです。

けどわたしは困惑していない。

実相的にはあなたたちも困惑していない。

この行為はこの仮想の中で、わたしがあなたたちと接触する手段です。目的は、あなたたちの本来の明瞭さを覆う曇りを吹き飛ばし、妄想をすかっと晴らすということです。

いいですか。あの十字架の一連の出来事は、ちょうどそれと同じような行為だったんです。

あのいわゆる「キリストの受難」は衝撃的に見えても、わたしはあの錯覚を無条件に受け入れたわけではない。無条件に受け入れたら復活しなかったはずだ。そう、この衆生界の人々が死ぬと同じように、自分も不帰の客となったはずだ。

衆生界の人々は自分たちのことをそれぞれ、なんらかの知性をもつ肉体に宿っているものだと思い込み、命数が尽きると亡き数に入るものだ。

イエス・キリストの引用

しかし命数が実際に尽きるわけではない。命は不死なんだ。だから、当然ながら、この証拠を彼らに見せ付ける必要があった、生でね。そして、わたしがよみがえたように、誰でもできるということが明らかになる。

ちょっと想像してみてください。

新約聖書の時代だ。わたしの連中にあなたも加わっている。ガリラヤへの旅路の途中、てくてく歩きだ。明けても暮れても一緒。ほこりが立つ場所で一休みしたり、飯を作ったりする。衣類をろくに洗えない日もあるぞ。

どうですか。

それを体験したら、わたしのことを平々凡々なやつだとわかるはずだ、あなたたちのように。

だって、歩いていると、あの連中のみんなと同じように、わたしも汗を垂らしていたよ。わたしは超凡でも非凡でもなかったわけです。汗を垂らしているわたしの姿を見ただけでわかる。

だからわたしの復活には、当時の人々にとっては特別の意義があった。あのイエス君にできるならおれにもできる、ということだったわけです。

ところが現代においてはこの意義が見えなくなってしまった。

現代は、わたしのことを巡るでっち上げがはびこり、人々の想像の中でわたしが人並み外れた異例だと見なされてきた。超凡の主イエス様には復活がおできになられても、平凡のおれなんかにできっこない、ということになったわけです。

だがあの復活は、あなたたちも同じようにできるということを見せるために起こったんです。

それが十字架の目的だったわけです。

十字架

誰かが150歳になっても、200歳になってもまだぴんぴんしているとするよ。それはすごい励みになるじゃないですか。

しかしそれが普通ではあり得ない異例だと見なされたら、励みにならない。

死が避けられないものだという信念は習い性となっている。だが人々はその習い性を手放したくて、その信念を覆す、腑に落ちる証拠を要求している。

だけどこの要求に対して、この衆生界の条件で応じるなら、人々のエゴに応じる羽目になってしまい、人々のためにはならない。

人々のためになるのには、自分の中心部の中に沈み、自分の実相と触れ合い、その智慧をよりどころにして行動することだ。そうすれば苦もなく、適切な行動を起こしていることになる。これは法則なんです。

人々はあなたとの接触で、なんとなく気が晴れ、人生観が変わったということに気づくものだ。

わたしはその法則をちゃんと知っていました。あのいわゆる「キリストの受難」の間中ずっと、わたしはどっぷり自分の中心部に浸かっていた。自分の存在という運動をよりどころにして行動していた。

言い換えれば、父なる神のみこころを行っていたわけです。

よって苦痛はこれっぽちもなかったんです。

ポール君も分かっています。はい、ポール君は、わたしの話を聞いている間中、不安感を全然覚えていないんです。聴衆の前にいても、そうでなくても。

トリノの聖骸布
トリノの聖骸布

ぞっとするような状況の中にいても。行動計画もないときにも、自分が管理していないときにも。なのに彼の意識は今という時点にどっかと据えられています。今行われている事柄をすっかり意識しています。

だけどすっかり安らいでいます、わたしが十字架を経験したときのように。

わたしが苦しんだかと思うのをやめてくれよ。

わたしが苦しんだとすれば、わたしもこの世の人々が見ていた錯覚にとらわれ、あの復活も昇天も起きなかったはずです。

それは真理なんです。

ついでに言うけど、あの一連の出来事の真相からは、もう一つの教訓が得られます。誰もあなたに危害を加えることができないということなんです。加害・被害が錯覚だということが証明されたわけです。

加害・被害という現象は、危害を自分自身に加えた人がその罪を他人に擦り付けているということだけなんです。

《一部省略》

群集は問題児のわたしをこの世から駆除しようとしたが、結局できなかった。わたしが承諾しなかったからです。

この教訓にアクセントを置きたい。

なぜならこんな錯覚を見抜ければ、罪がないということが証明されるからです。

考えてみな。罪の錯覚を見抜き、人々の歪んだ観点に加担しないことで、罪がなかったことを証明することができる。罪が犯されたように見える行為の間最中でも。

これこそ、無条件の愛なんです。

イエス・キリストの引用

誰かのために命を投げ出すことは無条件の愛ではないのです。罪悪感を覚える人の信念構造を認めてやらないことが愛だというわけです。

こうしてその罪悪の信憑性の正当化傾向を押しとどめるのです。

これこそ、愛というものなんです。
2001.4.29、米国ワシントン州キングストン村

Raj Gathering
質問者:十字架刑の抽象的な意義を教えていただきたい。《質問の要約》

ラージュ(=イエスキリスト):あれは起こった通りに起こっただけで、抽象的な意義などは全然ないよ。十字架刑という形になったのは、人々の口の端に上る予言を実現するためだけだったんです。

教訓を与えたのは復活と昇天のほうでした。

とは言っても、その予言が成就したということは、何世紀にもわたる、言わば「神の計画」の裏づけとなった上、神の存在を見事に証明した。

はい、抽象的な意義は一切なかったんです。

予言されたのは十字架刑だった。だから毒殺などの形で行われたら、予言の成就にならなかったわけです。そればかりか、世界とその日常生活に染み渡る、言わば「神の思し召し」の存在の裏づけにもならなかった。

あの一連の出来事を人々の脳裏に焼き付けるためには、そんな裏づけは不可欠だったわけです。
1989年、豪州シドニー市



チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
英語原文



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K・ヤマダ訳
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「わたしはクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
イエスキリスト、チャネリングされ、十字架の驚天動地の真相を語る ・教会の見解は迷信?