イエス・キリスト   ACIMとは   目次 
イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など

イエス・キリストが説く

死 ―その1

Raj Gathering
質問者:自殺死の結果は、事故死や病死などの結果とどう違いますか。

ラージュ(=イエス・キリスト):自殺者の経験からみれば、実際に何の違いもない。究極のところでは、事故死も、病死も、例外なく自殺死そのものなのだ。死というのは、意識的に行われても、無意識的に行われても、例外なく自分の実相存在という流れに対する抵抗行為だ。

命は、神の現れ、すなわちおのずから指導される根本的な意識的知性の現れだ。死は、これを受け入れようとしない抵抗行為だ。

「自然死」や「老死」と呼ばれるものは、命からじりじりと去っていく長引く行為にほかならない。

人は命に積極的に携わるべきなのに、なんで命から徐々に去っていくだろうか。それは誰もが自分のことを、霊魂や精神が一時的に宿っている物質的な生命体だと思い込んでいるからだ。




周りを見回すと、この世を去っていく手段としては、大概死ぬことしか見られない。その結果、死ぬことが必ず起こる自然なことだと思い込んでしまう。よって、大まかに言って40代半ばや50代前半になると、「新しいプロジェクトに着手しても無駄だ」とか、「こうなったら新しいキャリアを始める意味がない」とか、「今はしゃんしゃんしていても、この生涯の残りが少なくなり、長期間プロジェクトを引き受けても何もならない」とか言い始める。

よって命に積極的に携わることに対して、陰に陽に抵抗し始める。命に対するこの抵抗行為は、まさに自分の実相存在という運動に対する抵抗行為だ。従って実相の自分自身に対して調和が益々狂ってしまう。

これこそ自殺行為の初期の始まりだ。

拳銃などを使ってプロセスを省略しても何も変わらない。これもほかの死に方と同様に、命に積極的に携わることに対する故意的な抵抗行為だからだ。

普通は、死んだ後では、外見上の死因が何であろうとも、自分が死ぬ前と全く同じ者だと気付く。大概死んでからすぐに経験する唯一の変化は、死をもたらした原因がたちまち解消されるということだ。

癌であれ、手術であれ、物質的な原因が何であれ、自分がまだ生きているということが分かる。

これで病気が殺せないということが明確に分かり、直ちにその病気に対する恐れから開放される。その恐れが無くなる上に、病気の殺し得る性質にまつわるすべての信念も無くなるものだ。こうなったらその病気が即時に癒される。

イエス・キリストの引用


だからあなたたち一人一人は、病気に対処しているとき、この事柄を心に留めておくべき。究極的に死をもたらすのは、病気そのものではなく、病気に伴う恐れ、そして病気の進行的性質にまつわる信念にほかならないのだ。

病死をもたらすのは、信念、また習い性だ。他人から聞いたことで、そして他人の病状を観察したことでできたことによるものだ。他人に起こったことは、自分にも起こり得るということが反射的に信じ込まれてしまうからだ。

しかし、先ほど指摘したように、病死しても、自分が存在しなくなったりはしないことが分かってくる。分かってきたら、病気に対する恐れがたちまち解消されるものだ。そして病気にまつわる脅威が解消されると、癒しが経験されるものだ。

イエス・キリストの引用


その癒しは、死んだ結果ではなく、例外なく気付きの結果だ。例外なく真理の明瞭さへの移りの結果だ。

このような移りは、病気の進行的性質にまつわる信念に屈しないで、今ここでもできる。

自分の手で死んだ「自殺者」と呼ばれる人は、地獄に落ちたり煉獄で苦しんだりはしない。かえってほかの人と同様に、依然として真理の門前に立ち、真理を見出そうと待ち構えている。あなたたちと同様に、真理を自分のものにしようと構えている。

しかし死ぬことで、優位になるわけではない。死んだ人たちは、依然として死ぬ前にもっていた同じ信念に支配されているし、悟るために同じ機会が掴められる。

さて、以前にも話したように、すべての人は目覚めの門前に立っている。これは現在では断然的かつ普遍的に言えることだが、2千年前には、いや2百年前には言えなかったことだ。

なぜかというと、ここ2千年、まだ眠って夢を見ている同胞には、かなりの成長が起こったからだ。そして以前より強い自尊心をもちながら自己責任を取る意欲が増してきた。その結果、聖書でいう「天の父の御意(みこころ)」には、人が相次いで屈服するようになるほどの信頼が生じてきた。




言い換えれば、同胞が心の奥底の知識に屈服するための勇気を出している。同胞は、何世紀にわたって生存するために、エゴ的なちっぽけな自分を採用してきた。しかし今は、それよりはるかに深くて広々としている実相自分《=真我》のほうに屈服しようと勇気を出している。

その結果、積極的に無知を活性化している人が一方的に減っている。

要するに、奥底の知識を頼りにしている人、つまり聖霊に屈服している人、または天の父の御意に屈服している人が一方的に増えている。こうした人は、衆生の知性から生じる知識よりはるかに深い実相知識に従っている。一方、限られた三次元範囲内、つまり衆生のエゴ的な無知を最高であるかのように裏付けて強めている人もいる。

しかし前者が増えれば増えるほど、後者が減る。

よってエコが段々弱くなってきている。エゴのもたらした、衆生の抱く思考体系も段々弱くなってきている。この現象は、この地球で現世に転生したあなたたちも、宇宙の余所で現世に転生した人たちも経験していることだが、それだけではない。目覚める前の最前線に立っている死んだ人たちも経験していることだ。

この意識の移り、つまりわたしのいう「目覚め」は、全宇宙に起こっている。

これは実際に、エゴのもたらす無知をまだ生かしている人がもう少なすぎるからだ。先ほど言ったように、自分の手で死んだ「自殺者」と呼ばれる人は、高齢や病気、事故などで死んだ人と同様に、自殺に対してばちの対象になっていない。

死は錯覚だ。錯覚を行う手段は問題にされない。ある手段はほかの手段より悪いわけでもない。

イエス・キリストの引用


「ばち」というのは、自分の神性に対する全般的な無知そのものによってもたらされるものだ。無知で行われた個々の行為によってもたらされるものではない。どんな状況や背景においても、人は自分の行為で裁かれることはない。

これを理解することが重要だ。

自分の方へ向けられる裁きは、決して天の父によるものではない。決して完全に目覚めた人によるものでもない。例外なく、自分が無知を選択した結果によるものだ。無知を採用する限り、その無知で苦しむものだ。

無知が実相知識と入れ替えられると、苦しみが止むものだ。自分に対する裁きはそういう働きだ。無知は自分の真理の経験を覆い隠している。

唯一のばちは、無知で苦しむことにほかならない。

で、無知から開放されるのには、どうすればいいのだろうか。それは真理に対して無防備になることだ。すなわち真理が自分の限度内に浸透してくるように、真理が自分の本質だと分かるように無防備になることだ。

無知から開放されたら、自分が実際に何者なのかが明確になる。それで無知とともに、苦しみも消える。自分に対する見掛けの裁きも、もうどこにもない。




カリフォルニア州カーメル村
1990年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
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「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが説く「自殺死、自然死、病死、事故死」