イエス・キリスト   ACIMとは   目次 
イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など

イエス・キリストが説く

死 ―その2

Raj Gathering
質問者:体の死について語って頂きたい。

ラージュ(=イエス・キリスト):ああ、素晴らしい質問。

あなたは不滅だ。あなたの個人性が視覚や触覚で感知される性質も、あなたほど不滅だ。死ぬことはない。死ぬことはあり得ない。何度も生まれ変わったように見えても、どの個人性にも、体の経験が途切れられることが1ミリ秒もない。

これはありのままの事実。

分かりやすく言えば、遺族が葬る屍は、人生行路を旅しているあなたに対して、遺族の最終的に感知した物にすぎない。あなたの経験から見れば、自分の体、すなわち自分の顕現は、途切れることなく継続するものだ。

では、あなたは、生命にかかわる病気と思われる現象を経験していたとしよう。そして遺族の目から見れば、その病気がついにあなたの生命を奪ったとしよう。あなたは次のように気付く。

先ず、あなたの死と見なされる時点があったということ。

そしてこの時点では、あなたは死への恐怖を通過したのに、自分がまだ居るということ。

さらに、死因と思われていた現象があなたを殺せなかったので殺さなかったということが分かった結果、その現象はもはやないということだ。

自分は、「死」と一般に見なされている、強烈な恐怖の時点を通過したのに、無傷で、自分の顕現を途切れなく意識的に経験していると気付いたとしよう。その強烈な恐怖は、あなたの命を奪えないということが経験で分かるので、それがもう恐ろしいわけがない。

だからかかっていた病気という現象が消えるものだ。

あなたは「あたしは癒された!」と叫ぶ。だけど、かかっていた病気は、実質のない妄想にすぎなかったので、厳密に言えば「癒された」と言えない。このことはあなたにとって紛れもなく明白になる。

さて、このことに気付くのには、その強烈な恐怖の時点を通過する必要があるだろうか。




そのことはない。ここは好奇心の出番だ。

すなわち「わたしが目にする物どれにも、何の意味もない」《ACIM第1課、51課》と快く言う気持ちの出番だ。別の言葉で言い表すと、「わたしが目にする物の本当の意味は、わたしの思い込んでいる意味と違う」となる。

次は未知という境地の中へ快く寄り掛かるための信頼の出番になる。

この未知という境地は、心の奥にある、平安の場所だ。快くその中に沈むと、真実を体験として直接知るようになる。

知るようになるということは、思考を通して到達することではない。邪魔なしで、自分の本質を直接経験することによって到達することだ。自分の本質は神の表現した臨在だからだ。

よって今癒されることは可能。

その強烈な恐怖の時点を通過しなくてもいい。行く行くあなたは、その強烈な恐怖の時点には、あなたに対する力が元々なかったことに気付くものだ。

個人性の死があり得ないほど、体の死もあり得ない。

神の消滅があり得ないほど、世界の消滅もあり得ない。

天地は、神の無限顕現、すなわち神の運動を視覚や触覚で感知されるものだ。神と天地を分離することは不可能。




では、この「視覚や触覚で感知されるもの」は、物質でできているように見えるので、物質世界として一般に知られている。ところがこれは物質ではない。むしろ神の心によって経験されているアイデアだ。ゆえに何から何まですっかり霊的。

そのことを理解しなければならない。

さて、一般に知られている一切れの知識がある。しかしあなたたちのほとんどはその意味をちゃんと理解していない。

この一切れの知識とは...

物質は、以前はビリヤードの球の形になっている無数の微小な物体が円を描くようにくるくる回っていると思われていた。ところが物質を電子顕微鏡など最先端機器で観察すると、どうだろう。その微小な物体と思われていた現象は、どんな時でも物質にならない運動中の微小なエネルギーパターンにほかならない。

紛う方なし。

濃度のいささかもないエネルギーパターンばかりだ。そうでない構成要素は存在しない。

あなたたちの科学者たちは物質をどこにも見付けることができない。しかもそのことを既に公表した。この事実は、物質界という幻想の束縛からの大解放をもたらてもいいはずだった。またあなたたちに見える事柄に対する新しい見方を開く「開けゴマ!」になってもいいはずだった。

エネルギーはある振動数で活動する光だ。

ここでは振動数について話はしないが、エネルギーは光だ。一般に考えられているような物質的な要素は全く含まれていない。

コンコン、コンコン、コンコン...

このテーブルにも、コンコンと叩いている手にも、物質的な要素が全くない。物質という概念は、神と全く異なり、霊と全く無関係なものだ。ところがこのテーブルもこの手も霊と無関係ではない。

このテーブルもこの手も、物質ではなく、何かによって結合されているエネルギーだという気付きで、次のことが言えるようになる。

「もしかしてこれを感知するためには、別の方法がある」と。




これで好奇心が活動を始める。

あなたたちは、物質に見える物に対する知覚、また自分自身に対する知覚という独房に閉じ込められている。しかし好奇心では、この独房の扉をガタガタ鳴らしてみ、カギがかかっていなかったことに気付く。

さて、このテーブルはテーブルらしく見える。水の入ったグラスのように見えない。

チン、チン...

一方、この水の入ったグラスは、水の入ったグラスらしく見え、テーブルのように見えない。

理由は、物は意図によってつながれているエネルギーだということだ。

この「意図」というのは、あなたの限られた思考力で活動させるようなものではない。神の意図、すなわち無限の創造心にある意図のことだ。この意図は、無限の心にあるアイデアと切り離せられない。

「観よ、われ一切(すべて)のものを新たにするなり」《ヨハネの黙示録21:6》ということだ。言い替えれば、物事の束縛されていない発生は、神が新しい事柄を見せることにある。

神が新しい事柄を見せることは「啓示」という。

啓示というのは、一般に思われていると違って、人類にだけ行なわれているようなものではない。啓示、すなわち神が新しい事柄を見せることは、神の心の運動だ。神の行動だ。

啓示は心によって経験されている。啓示には意味がある。その意味は意図を構成している。

この意図は、エネルギーパターンに瞬間的に反映している。心は、このエネルギーパターンを物の材料として経験している。すなわち自らの各アイデアをこの材料でできたものとして経験している。

地球と名付けられたこの固形化したらしい土の塊からみれば、あなたは今、ここ、フィラデルフィア市に座っている。ここに座っていながら、あなたは心の意識的経験そのものだ。

物質の影も形もどこにもない。




ペンシルベニア州フィラデルフィア市
1992年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
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「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが説く「体の死」