イエス・キリスト   ACIMとは   目次 
イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など

イエス・キリストが明かす

二の足を踏む時の神秘的な
踏み出し方

Raj Gathering
質問者1:わたしは教師養成講座を終了しようとしています。しかし終了したらどうすればいいか分かりません。どこに住めばいいか、また担任教師になるべきかどうかは分かりません。《質問の要約》

ラージュ(=イエス・キリスト):断を下すのは、どうして講座を終了してからにしないのかい。

同質問者:終了するまでにはたった一週間しかないからです。気が急くんじゃないですか。

ラージュ:駅のホームまではまだ百メートルがあるというところで、走行中の電車から飛び降りるのかい。ホームに到着してから降りたほうが大分楽だ。しかも賢明だ。ぐずぐずしていたという無責任ではない。

足を支えるしっかりした地面が浮かんでくるまでは、次の一歩を踏もうとしないほうが賢明だ。

階段を下りることでも同じことが言える。階段の上部からいきなり一番下の段に飛び降りることは危ない。そうすりゃ、肉離れを起こしかねない。一番下の段を踏む前にその前の段を踏むことは無責任ではない。

また、一番下の段に着くために計画を立てないと、その段が現れないかもしれないと思い込むことは賢明ではない

イエス・キリストの引用


あなたはずっと何に向かって進んできたのか。養成講座の終了にかい。

違う。

育成講座の終了はその育成講座の現れの後半だ。だからその段階が現れてくるに決まっている。

終了まで5日間しかなくてもだ。

5歩しかなくてもだ。

電車が止まるまで1メートルしかなくても、勇気を出して待つほうがいい。降りる前に、電車が止まるまで待つほうがいい。降り立つためにホームがあるという期待が道理にかなっている。

どうしようもなく操車場などに運ばれてしまうことはないよ。




質問者2:僕の場合は、電車が止まり、自分はホームに降り立とうとするところです。片足がぶらんとぶら下がっていますよ。というのは、これから住む家を探しに、自分はあちらこちら旅してさまよっています。

知り合いにアドバイスを求めたら、「自分の住家は自分の内にある」と異口同音。それは言われなくても百も承知ですけどね。知りたいのは、自分の三次元《現象界》の体を安全に休める住家がどこにあるかということです。

ラージュ:所番地を教えようか。

同質問者:お願いしますよ。

ラージュ:あっさりと謙遜になるように勧める。自分のための場所があると信じることは適切だ。それを探しに、当てもなくさまようことは不適切だ。

その場所は、自分の活動の周辺ではなく、その中心点として使う、人心地がつく場所になる。だが、その場所が究極の場所でなきゃなんないという態度を取らないほうがいい。

必要を満たすだけの物件に対して、抵抗しないほうがいいよ。

さて、この機会は、すべてがお膳立ての整った状態で持ち込まれることはない。あなたの外側からやってくるのではない。どこからやってくるかといえば、自分の実相と接触することからだ。そして、自分にとって「住家」というものの意味を巡って、自分にとって場所の重要な要素を意識することからやってくるのだ。




「自分の住家は自分の内にある」というのも本当だ。でも身を雨や雪から守る物が必要だ。寒風から守る囲まれた空間も必要だ。

自分の本拠地となる住家を表す形が現されてくるのは、自分の実相との内的な接続を実行しているときにだ。他人の意見やアイデアを求めるのをやめたほうがいいよ。

あなたにとって、望ましいものは何なのか。

あなたが抱くフィーリングの対象は何なのか。

やる気の対象は何なのか。

欲求は何なのか。

そのほうに注意を向けると、その必要を満たすことを現す形が現れてくるものだ。言い換えれば、あなたの視界に入り、心にひびくものだ。

でも、狙いを究極のやつに定めないようにしよう。要するに、「今後10年間住める家を見つけなくちゃ」などと言わないほうがいい。

注意を現時点に向けるんだ。

自分のフィーリングを離れないようにするのだ。現時点の必要を満たすもののほうに目を付けろ。10年後のことはどうでもいい。

現時点と調和するのが得策。

現時点とは天地創造が行われつつあるところだ。実際は、天地創造とは現時点の経験を成しているものだ。だから次の二つのことを勧める。

一つ目は、自分のフィーリングの対象、すなわち欲求に目を付けることだ。

二つ目は、現時点を離れないことだ。

その上、単純であれ。単純な態度に関して、あなたはすでに理解している。あの態度を捨てちゃいかん。

イエス・キリストの引用


所番地は教えなてやらないよ。なぜならそれが勘所じゃないからだ。勘所は、自分の実相と接触することを学ぶということだ。そして自分の実相との接触から、顕現が流れてくることを見届けることだ。

あなたは、自分の欲求また自分のフィーリングに注意を払わない癖がある。自分の必要とする物または解決が、自然に繰り広げられるものだと望んでいるからだ。

でも自分のフィーリングと欲求とに注意を向けたほうがいい。そうしないなら、その形を成す型がない。

説明しよう。

金銭が必要だとするよ。

「金が要る」としか言わないとすれば、その要求を満たす形となるものがよく働けない。もっとはっきりした定義が必要だ。

商品を購入し、請求書が届き、請求金額が正確に3543円だとわかったとしよう。「その特定の金額が必要だ」と言ったとすれば、その金額の顕現を定義する型ができてきているということになる。だからエゴが入り込むのではないかと恐れて、自分の必要とする物を意識することをおろかにしたり避けたりしてはならない。

自分の必要とする物を意識するがいい。そうすれば形を成す型ができてくるものだ。




同質問者:それにしても僕の悩みのたねは自分の二重人格みたいなことです。一つの人格は、一週間先のことをも考慮しないで、快く意識を目下のところに向けている。

ところが僕は在庫に保管してある1千キロぐらいの物を所有しています。これからの芸術活動に使うために、一週間しか滞在できないような場所には、在庫から出せない。もう一つの人格はそればっかり考えています。

両方の見解がもっともらしくて、なかなか踏ん切りがつきません。

ラージュ:踏ん切りがつかないのは思考力に頼っているからだ。先ほど言ったように、自分のフィーリングと接触しなければならない。

踏ん切りがつかないことは、フィーリングのレベルでは起こり得ない。二の足を踏むことは思考と想像のレベルだけで起こるものだ。

フィーリングでは、二の足を踏むことがあり得ない。

以前にも言ったように、わたしは「フィーリング」と「感情」とを区別している。わたしが言う「フィーリング」とは、魂が感じ取ることだ。一方「感情」とは、エゴの反応だ。感情では、二の足を踏むことはまさにあり得る。だけどフィーリングでは、あり得ない。

同質問者:じゃ、自分の二つの分身をどうにか融合させるんですか。それとも片方を駆除するんですか。

ラージュ:わたしが示したように、その二つの分身は両方とも思考のレベルにある。そのレベルは分裂したエゴで構成されている。しかもその分裂した部分は相容れない。

イエス・キリストの引用


その分裂した部分を合わそうとするのでないぞ。意識を思考から放し、心のほうに移すのだ。

「心」というのは、魂のこと、要するに自分のフィーリングと接触している内面的な場所のことだ。

意識を心のほうに移せば分裂がない。矛盾もない。思考レベルにあった見掛けの選択肢もない。選択肢で迷うことのない明瞭さを経験するようになるからだ。

そしたら、「これをやらなきゃ」とか、「これが適切だ」とかが自然にわかるのだ。




バーモント州モントピーリア市
1998年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.06.30
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
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「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが明かす「二の足を踏む時の神秘的な踏み出し方」