イエス・キリスト   ACIMとは   目次 
イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など

イエス・キリストが明かす

神秘的な治癒の驚くべき奥義

Raj Gathering
質問者:病気というものは一種の「心地よさの欠乏」だとが分かりました。では、愛する人が手に負えない精神病にかかった場合は、その精神病の役割は何でしょうか。

ラージュ(イエス・キリスト):まず第一に、身体的であろうと、精神的であろうと、病気は何の役割を持っていないということをはっきり言っておきたい。ACIM《奇跡の学習コース》で述べたように、病気を含めていかなる問題は、神の子の権利を侵害する押し付けだ。

聖霊が問題を人の利益に転じることができるということは事実だ。それにしても、問題というものはそもそも人の利益になるために生じるというわけではない。

これを言った理由は、問題というものを価値付けてはならないということに重きを置くべきだということだ。聖霊の働きで問題が教訓と利益をもたらすとしてもだ。

イエス・キリストの引用


核心をつくと、問題というものは非合法の押し付けだ。だから問題が生じたら、かかわらないで、一笑に付してキッパリとはねつけるべきだ。

これは重要だ。甚だしく重要だ。

では、ご質問に答えるために、もっと大所高所から見る必要がある。

先ず半信半疑でも敢えて考慮に入れておくべきことがある。それは自分自身のことを今どのように知覚しようとも、何者として知覚しようとも、あなたたち一人一人は神の直かつ完ぺきな表現だということだ。

この完ぺきさは、未来に待ち構えているようなものではない。今あるのだ。なぜなら、あなたから切り離させないものだからだ。この完ぺきさを経験するのには、必要なのは知覚の移りだけだ。

成長は必要ない。

魂の精錬は必要ない。

必要なのは知覚の移りだけだ。

この知覚の移りをもたらすのは、自分の完ぺきさを知覚しようとする意志、すなわちそれを経験しようとする意志だけだ。

どういうこと?

自分を閉じ込めている状況と定義の範囲以外にある可能性を受け入れるために、昨日話していたように、見たところ無責任で無鉄砲になってもいいという意志が必要だということだ。

知覚が移れば、今もあなたたち一人一人がこの会場に座っていながら、自分たちの実相の姿はバッチリ経験されるものだ。わたしには、この会場では、あなたたちの「光の体」としか言い表せないものが見える。




勘違いがないようについでに言っておくけど、ポール君《イエスをチャネリングしているP・タトル氏》は、目が開いているとしても、これらの光の体が知覚できない。

わたしには、光の体だけでなく、「衣服」と呼ばれるものも光っている。なぜなら、あなたたちの体の本質も、あなたたちに見えるすべての物の本質も、生きている愛だからだ。このことは、この瞬間にも実際の有り様なのだ。

しかし問題は、あなたたちはこれを忘れてしまったということなのだ。

では、この記憶喪失は一体どうやっておこってしまったんだろう。分かりやすくするために、次の話をしよう。

記憶喪失が起こったのは、神の子の一人がACIMで言う「おかしなアイデア」をぽつっと思い浮かべたときだった。この「おかしなアイデア」は、個人の独創性を発揮する試みだった。

「自然のやり方の代わりに、この異なったやり方で万物を見るとすれば、どうなるだろう」、また「この異なった立場から万物を見るとすれば、どうなるだろう」と。それで自分の作り上げたこの空想で遊んでみた。

おもしれえ!

もう一人の神の子を呼んでこう言った。

「おい、想像力をちょっと働かせば、すごい経験ができるよ。おれと一緒にやってみない?」と。 それで2人でやってみた。

そしてありとあらゆる物に対して独自の定義を作った。神である父がそれぞれの物を創造していることによって意味を表現しているにもかかわらず、この2人はそれと異なる定義を決めた。




万物に対するこの異なった知覚を一緒にやり、途轍もない体験をすることが有益になると合意した。LSDなど麻薬をやるようなすごい体験をしようと決めたが、麻薬の場合と違って、2人で同一経験に相乗りした。

この経験にうっとりして心を奪われた。独自の定義でできた世界の中で2人が一緒になると、その世界に憂き身をやつしてしまうものだからだ。

この新しい知覚を一緒に体験したら、一体何が起こったんだろう。

神の与えていた意味をいくらかゆがめることにしていた結果、自分たちの全体性が経験できなくなったのだ。

経験の対象となるものは、いまだに神の天地創造にある天国だけだった。なのにこの2人は、それに対して、言ってみれば、狭くゆがめた展望を作用するために、無限の展望を拒否していた。自分たちのことが無限であるという経験がなくなると、うっとりさせる新しい経験をすることになった。

これは恐れを感じる経験となった。この背景では自分たちのことが取るに足りないちっぽけな存在だと感じ始めたからだ。

恐れの経験だったので、身を守る必要を感じていた。

それで、自分たちの光の体を引き締め始めた。自分たちの知覚では、自分たちの光の体がどんどん濃くなってきたので、自分たちの輝きも、ほかの万物の輝きも、暗くなり凝固してしまった。

ありとあらゆる物に独自の新たな定義を付けるという、うっとりさせる経験にふけっていると、自分たちに対しても、新たな定義を付けなければ気が済まなかった。自分たちに付けた定義とは、ありとあらゆる物に対する意味を定める権威ということになった。




この独立した個人的な権威になるのには、自分たちの実相を否定しなければならなかった。自分たちの神性の存在という運動を無視しなければならなかった。しかも万物を見る父の立場である、自分たちの無限の展望をも無視しなければならなかった。

さて、防備というのは身を守る手段だ。しかし何に対するだろう。

実相の正気を経験することに対するだ。すなわち神の無限の展望を経験することに対するだ。言い換えれば、万物の実相を経験することに対するだ。

よろしいか。

自分の実相を否定している状態では心地よくなり得ない。

なぜなら、自分の知覚がどんなに狂っていても、人は、皆が皆、絶え間なく神の子であるからだ。神の子は、一瞬一瞬昼夜をおかず申し分なく神に表現されているものなのだ。

それゆえあなたの実相正気は永久不滅だ。想像にふけることによって、それに対する知覚をゆがめることはできる。それにしてもあなたは神が創造した、実相正気をもつ人であることは取り消されない。なぜなら、実際は、人には神の創造を変える権限がないからだ。

よろしいか。

ゆがめた知覚にうっとりした状態は狂気で不自然だ。当然ながら永久不滅の実相正気の働きでは不愉快になってしまう。不愉快になればなるほど自己防衛的になるものだ。これは実相に対する妄想にしがみついているからだ。

この自己防衛は、実相に対するゆがめた知覚への執着によってもたらされ、自分の実相に対する否定から切り離せないものだ。

よろしいか。

自分の実相を否定していれば、永久不滅の実相正気は、あなたが妄想にしがみつく度合いと必ず釣り合うものだ。自分は体を濃くすればするほど体を不愉快にし、とどのつまり病気など「心地よさの欠乏」の苦汁をなめてしまうはめになる。

イエス・キリストの引用


つまるところでは、病気というのは、アルツハイマー病など精神病にせよ、精神と無関係に見える身体病にせよ、どれもこれも精神的だ。すべては、自分の実相を絶え間なく否定している結果だ。

自分のアイデンティティーに関するひねくれた信念に執着していながら生活を送っていることは、どういうことか分かる?

また自分の実相について好奇心をちっとも働かせていないことは、どういうことか分かる?

この花の実相についても、自分の着ている一式の服の実相についても、ほかのものの実相についても好奇心をちっとも働かせていないことは、どういうことか分かる?

それは自分の実相を否定していることだよ。結局病気など「心地よさの欠乏」は、精神的であろうと、身体的であろうと、自分の実相を否定していることのゆがんだ現れなのだ。

これを正す唯一のものは自愛だ。

説明しよう。

自分のことが神性な存在だということを全く考慮に入れないとするよ。そうすると健康状態がよくなる見込みはあるにしても、あくまでも自分のことが精子と卵子から生じたただの人間にすぎないと思い込むじゃないか。しかも病気に対しては、世俗の心理的な立場から取り組むじゃないか。




じゃ、病気になったら何をするのだろうか。

病気がある程度悪化したら、床に就いて休み、良い栄養を摂取したりして自らの看病をするじゃないか。しかも重要だと思い込んでいたすべてのことから手を引くじゃないか。

そうしたら何に専念するだろうか。

自分のニーズにだ。そしてそのニーズを満たすことにだ。これは世人の目から見ても自愛だ。

では、自分のことを死ぬ運命にある人間にすぎないとまだ思い込んでいるとするよ。自らの看病に注いでいる自愛が健康を取り戻すようにと、願うことはできるがそれ以外は何もできない。完全な治癒が自分の生まれながら持つ権利だという証拠をつかんでいないからだ。

よろしいか。

その前提では、完全な治癒は自分自身に対するゆがめた知覚に含まれていないのだ。

イエス・キリストの引用


ところがあなたたちは精子と卵子から生じたのではない。あなたたちの源はずーっと神が自らの存在によって表現している権限だったのだ。これがひょっとして本当かと認めれば、自分自身を見る目が変わり、可能性を考慮するために全く新しい見解が広がってくるものだ。

あなたは神が創造したままだ。

それより低くなったことは一瞬たりともなかった。ゆえに、妨げなしであなたの神性の姿を意識的に経験する見込みは、空想ではなく、あなたの生まれながら持つ権利だ。

しかし、神の創造した万物を見るのには、あなたたちは神の見解から自分の空想へと観点を移した。そうしたら興味深いことが起こった。

それはあなたたちにとって、自分の空想のほうが現実になり、あなたたちを巡る神の現実が空想になってしまったということだ。知覚はこのように移ってしまった。

だから途轍もないことを考慮に入れてほしい。

あなたたちは、ちょうど今という瞬間にも、完ぺきな状態でぴったり神が創造した通りだ。しかも今すぐそれが経験できるということだ。

必要なのは、知覚が元通りに移ることだけだ。




ちょうど今、この会場は、あなたたちの体の光によっても、あなたたちに見えるすべての物の本質の光によっても照明されている。

本質が光だからだけではない。光が愛だからだ。生きている愛なのだ。だからちょうど今、この空っぽの空間を含めてあなたたちに見えるすべての物は、大なり小なり照明されている。

光は愛だ。愛情を注いでいるものだ。きらびやかな経験だ。至福の経験だ。ちょうど今という瞬間にも全面的に行われている経験だ。しかしあなたたち自身に対する限られた見解への執着では、これを見逃している。

病気とは何なのだ。

平たく言えば、精神的に見えても、身体的に見えても、一点張りで自分自身の実相を積極的に否定していることの表れだ。

愛する人たちが精神病でいなくなったとあなたは話していた。ところが、わたしたち目覚めた兄弟・姉妹の立場から見れば、これはどういうことだろう。ゆがめた知覚に執着しているあなたたちは皆が皆精神病にかかり、わたしたちを締め出している。

わたしたちはここにいるよ。

あなたたちの肩をたたいている。なのに、「今取り込み中、この夢はすげえ、最後まで見ないとね」とあなたたちは言っている。このようにわたしたちが締め出されている。

わたしたち目覚めた兄弟・姉妹は、あなたたちが遠い未来にたどり着くような、はるかかなたにある霊的境地にいるのではない。わたしたちはまさにここ天国にいる。

イエス・キリストの引用


あなたたちもまさにここ同じ天国にいるが、いわば白昼夢を見ている。この白昼夢は、わたしたちから、また実際に行われている事柄から、あなたたちの気をそらしている。

病気に対する解決は自愛だ。もっとも世俗でいう意味での自愛というよりも、神性である真我《=実相自分》を愛するという意味でだ。

自分の健康状態がとてもいいと思い込んでも、実際にそれほどでもないということをも考慮に入れてほしい。良い健康を経験していても、実際に健康をさらに豊富に経験できるからだ。

あなたたちの健康状態が思い込んでいるほどではないと言っているのは、けなすつもりではない。森羅万象に対して、あなたたちの知覚がかなり限られているということを指摘するつもりだけだ。それで森羅万象をより豊富に経験するために好奇心を意識的に抱くように勧めている。

そうすれば白昼夢から覚め始めるものだ。

では、驚くべきことに、あなたたちの問題は、森羅万象から分離したという知覚だ。困難を引き起こしているのは、あなたたちはこの分離知覚に病みつきになっているということだ。しかも幻想がどんどん良くなるように励んでいる。

そのために、さらなる卓越した独立性をもつ超創造者になろうと血眼になっている。申し分ない創造者になれたことに伴うプライドをわき目も振らずに追いかけている。従って目覚めは自分の大切にしているものがごそっと犠牲にされることに見えてしまう。




このジレンマをどうやって乗り越えるだろうか。

超創造者になる見込みを活性化しないこと、またそれを攻撃しないことだ。さらに、宇宙の秩序と意味を作り出す超創造者になる意欲をほっておいたら、好奇心を働かせることだ。

具体的に言えば、あなたにはうっとりした感じで物を見る能力があるから、次のように、そうした感じに深けるように勧める。

「あら、このテーブルの本当の意味は一体何だろうか」

「うわ、この葉っぱの実相は一体何だろうか」

「この特定の形では、父が自らの愛の豊かさについて一体何を表現しているのだろうか」

よろしいか。

兄弟・姉妹《=他人》を見ているときは好奇の目で見るがいい。「ここにいるのは、ちゃんと分かっているつもりなんだけど、もしかして何か見落としているかもしれない。ここに神の何があるのだろうか」と。

これなら、申し分ない創造者になりたいという野心を保護する防備が煽られない。

毎日、この好奇心を働かせ、思いがけないことを受け入れるように心を構えろ。そうしたら人生の意味を自分で定めるおこりが落ちるものだ。しかも、その役割を担う独立した申し分ない権威になる野心よりも、思いがけないことの発生のほうが望ましく感じられるようになる。

断言するよ。

よろしいか。

その結果、従来のやり方を止め、実相の正気のほうへと関心が自然に移っていることも分かってくるよ。この集会から帰ってから、記憶に残るのはこの点だけだとしても、出席する価値があったと思っていい。

万物は神が創ったままだ。

あなたも神が創ったままだ。




あなたは、欠点なしの充満した状態で、神がちょうど今表現している目的の存在だ。ゆえにこの状態はあなたが成長して達するようなものではない。なぜなら、既に達してあるからだ。もっともあなたは万物の正体がすでに分かっているという自信があるが、その自信をあきらめる意欲が必要だ。

よろしいか。

もっと学ばなきゃならないことではなく、かえって自分が学んだことをことごとく快く手放すことだと言える。なぜなら、万物について自分が学んであることは邪魔だからだ。学んであることのせいで、万物が実際に経験できないのだ。

さて、この会場には、次のようにぼそぼそ言っている人がいる。

「おれには身体的な不調がどこにもないじゃないか」とか、「あたしの健康状態はとてもいいですよ」とか。

じゃ、聞くけど、あなたは美しいか。あなたの体は形の均斉と麗しさの表現か。それともあなたたちの中では、胴の短い人もいるか。

おっぱいはぺちゃんこか。

ちんこは小さいか。

ならば、すべての面で完ぺきさをさらに豊かに経験する余地がある。健康状態がいいと思い込んでいても、さらなる治癒を期待してもいいんだ。

あなたたち一人一人は申し分なく美しい。癒されたら、この美しさは明らかになってくるものだ。あなたたちが遭遇する経験の一つなんだ。

と言っても、あなたのほうに目を向けると、わたしの目に映るのはすでに均斉の麗しさだ。あなたは自分が知覚しているよりも背がもう少し高い。ほかにもいろいろと異なっている。




あなたの本当の容貌は、将来に達するようなものではない。今そこにあるのだ。あなたにはまだ見えなくても、この会場にいるほかの皆さんにも、心がもっと澄んでいれば、わたしの目に映るのと同じのが見えるものだ。

よろしいか。

この会場にいるほかの皆さんにも、あなたの本当の容貌が見えるようになってきたとすれば、どうなるのか。この会場では、あなたのゆがめた知覚を裏付ける支援がなくなる。そうしたら自分の知覚も自然に移ろうとするものだ。

このように、あなたたち一人一人が他人の目覚めに関与する。心が澄んでき、万物に対するゆがめた知覚が無くなった人の数が多くなればなるほど、ゆがめた知覚をまだ抱いている人のおこりもそれにつれて落ちるものなのだ。

あなたたち皆は、怪我や病気が即座にぱっと治癒したという話を聞いたことがあるじゃないか。あなたたちの中には経験者も幾人いる。

身体は進化してもあくまでも濃厚な物体だと一般的に思われている。しかし、即座の治癒は、身体がそんな物ではなく、しかもそんな物になったこともないという証拠だ。知覚の移りが起こるように経験者が無抵抗になったことをも実証している。

経験者は身体的な完ぺきさの経験に抵抗して意義を唱えていたが、止めたら知覚的なゆがみが手放されたのだ。

このゆがみは、幻覚剤が起こすのと同じだ。目前の壁は、幻覚剤をやったときには、やっていないときと違った感じに見えてくる。なのに壁自体は変わったわけではない。

じゃ、そっちに座っているものは何だろう。

あっちに座っているものも何だろう。

神の存在という運動そのものだ。ゆがんだ知覚からは影響をまったく受けていない。ゆがんだ知覚は想像力で当てはめられたものにすぎないからだ。

このひとかけらの想像が捨てられた瞬間には、間違った知覚がぱっと消え、病人は完全なものとして知覚されるようになるものだ。明らかに、即座の治癒は、病気の身体が健康な身体になるように操られた結果ではない。知覚のゆがみが手放された結果なのだ。




このことを持ち出した理由は、形而上学では、身体を改善する精神的な術がよく勧められているからだ。そのため、形而上学的な術が耳目を集めてきた。

ところが、治癒は身体を操ることとは全く無関係だ。対処すべきものは、自分自身に対する知覚をゆがめているよじれだ。

つまるところでは、病気というのは、いわば精神的病気が起こしたゆがんだ知覚にすぎない。制限されていることは錯覚にすぎない。この錯覚の中にあなたたちを閉じ込めた精神的なよじれこそ、対処すべきところだ。

もう一度核心を衝くけど、解決は自愛だ。

先ほど説いたように、自分および他人のことをどのように知覚していても、今という瞬間にも、あなたの実相は、神が一瞬一瞬表現している究極のもので、神自らがあなたとして現れているものだ。この意識はあなたの中にある。

自分の実相が今にも見えてくるかという心構えで、見ようと好奇心を抱くことが自愛、すなわち神性である真我を愛することだ。

その際、何で見えてこないのかあれこれ考えてはいけない。あれこれ考えることでは、気が散り、好奇心が抱けなくなるからだ。

見えてこない理由を突き止めようとするのには、想像力が働かされてしまう。よって、ありとあらゆる理由が止めどなく入れ替わり立ち代りに出てくるものだ。好奇心を抱き続けさえすればいいのにね。

隣ににいる人を見ているときにだ。

鏡に映る自分の姿を見ているときにだ。

花を見ているときにだ。

庭にあるあの邪魔物の岩を見ているときにだ。

「おお!この岩というものは何なんだろう。確か地球の進化過程でできた花こう岩の切れだと思う」などと何だかんだ言うだろう。「しかしおれに見える物は何もかも天国の一部だとすれば、この岩の実相の意味は何なんだろう」というように好奇心を働かせばいい。

あのね、

例外なく、あなたに見える物にはそれぞれ、実相の意味がある。あなたが生きているほど、物はどれもこれも生きている。「無生物」と見なされる物もそうだ。

なぜ?

その形を取らせて発動した意向の知性は神だからだ。その知性は、言ってみれば、そこに具象化され、自らの実相の意味をあなたに伝える手段を持っている。

イエス・キリストの引用


あなたはその物を除外し、「こいつはおれの一部じゃねえ」と宣言した。なのに、その物は、あなたを除外したというわけではなく、万物であるあなた《あなた=万物》を愛し続ける愛の存在そのものだ。

「ここにある実相の意味は何なんだろう」とあなたは聞くときにどうなるか。もし想像力を活動しないで、答えを得ようとして、うっとりと期待しながら心から聞くなら、その岩は、それ自体の実相の意味をあなたに伝えるものだ。

驚くべき経験だ。庭にある岩みたいなつまらなさそうな物でさえ、森羅万象の統一性がぴんとくるところになってもおかしくないからだ。よろしいか。

天国を特別に聖典の中で探すな。岩の中で探せ。

なめくじの中で探せ。

さびたクギの中で探せ。

聖典を含めて何でも目に触れる物の中で探せばいい。だが、神の存在という意味また「あなた」というものの意味を発見するのには、なめくじや岩より聖典を神性だと思うな。究極というのはちょうど今なのだ。途切れずに行われているのだ。




なのにあなたたちの多くは、あたかもアルツハイマー病にかかったかのように、それを見落としている。なぜなら、好奇心を働かせるのを忘れたからだ。好奇心を招くこのようなものがあるということを忘れている。なので好奇心を働かせる動機がない。

分かる?

わたしの言っていることは、あたかもあなたが病気ながら完ぺきだという二重みたいなことだ。これは好奇心を引き起こすためだ。完ぺきさについてあなたが抱いている概念を超えた完ぺきさがあるということを知る必要がある。知らないままでは、この完ぺきさを見ようとする好奇心が浮かばないわけなのだ。

天国はそれ自体を無理やりに人に受け入れさせることができない。

わたしたち目覚めた同胞は、人に実相の正気を無理やりに受け入れさせることができない。また人に無理やりに聞かせることができない。人が注意を払っている対象が何であろうと、それを中断する特権をもっていないからだ。

実を言うと、世俗で言う「時間の経験」の中では、それを中断しようとした試みがある。でも横を向かれた。あなたたちが経験しているところのゆがんだ知覚に対する執着が、どんな場合でも、頑固だからだ。

実相の現実が鮮明に知覚できなくなったことは、あなたたちの決めたことだ。

でも、あなたたちは依然として神の子だ。あなたたちの完ぺきさの中では、空想的な夢を作っているが、この夢はあなたたちの実相の完ぺきさを実際に変えなかった。あなたたちは天国から追い出されなかったので、帰ってくるように招かれる必要はない。

天国に帰る道は一つだけだ。

あなたが経験しているところより多く経験できるということを思い出し始めることから始まる。思い出し始めたら、観点が白昼夢から実相へと移り始めるものだ。

白昼夢から覚め始める、すなわち勝手に付けたあらゆる定義に対するおこりが落ち始める。その代わりに自分の実相をさらに鮮明に経験し始める、すなわち自分の実相の正気を全体的に経験するようになるものだ。

だが自分の決断で踏み出さなければならない。

今日わたしの話を聞くことができたのは、あなたたちの好奇心のおかげだ。この会場に到着する前にも好奇心を抱いていた。実相との接続が起こるほど好奇心が高まれば、あなたは思い出させられ、励まされ、招かれる。けど無理やりに受け入れさせられない。




スコットランド国インヴァネス市
1996集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.11.10
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
ACIMロゴ
acim.jp
「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが明かす「神秘的な治癒の驚くべき奥義」