イエス・キリスト   ACIMとは   目次 
イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など

イエス・キリストが明かす

病気やけがを削除する方法

Raj Gathering
ラージュ(イエス・キリスト):質疑応答の時間に入る前に、伝えなければならないキーポイントがある。このキーポイントはわたしが「キーポイントだ」と言ったからキーポイントになったわけではない。キーポイントになっているのは、それがあなたたちのそれぞれの問題に対応しているからだ。

では、以前の集いでは、出席者一同に、会場の窓のほうに注意を向けてもらったことが2回もある。窓のガラス板は、シリコンでできた物体だと見なされるにもかかわらず、フォース・フィールド(力場)にほかならないということを指摘した。

そう、SF映画でよく発生されるフォース・フィールドと全く同じ意味での現象だ。

エネルギーのパターンのすっかり透き通っている存在だ。凝集性があるのでそれ自体の形が保たれる。しかも厚みが十分あれば、人にもたれられても壊れない。

想像力をちょっとだけ働かせれば、あのガラス板が物質であるという考えを割と簡単に捨てることができる。あのガラス板は、識別できる実質的な存在感を発揮する凝集性をもつエネルギーのパターンだと見受けられる。

まさにフォース・フィールドにほかならない。

じゃ、そこのガラステーブルに着いている人たちよ。肘や手がガラス板に載せてあるじゃないか。そのガラス板を物質の存在だと思わないで、むしろそれがまさにエネルギー場であるかのように接触してほしい。ほかの皆さんには、自分もガラス板に触っているところを思い描いてほしい。




さて、この課題の目的は、ごくありふれた物に対して今までと違う体験ができるということを、せめて理論的だけでも、理解する機会を与えることだ。

そのガラス板は物質がいささかも含んでいない純エネルギーだ。そしてあなたはそのつもりでそれに触ることができる。物質性がまったく含んでいないのだ。

未来を舞台にしたSFストーリーの次のシーンを思い描くことができる。登場人物は念力でガラスみたいなフォース・フィールドを自分の前に発生させるとしよう。フォース・フィールドは完全に固形で、完全に透明で、乗っかられたら体重が支えられるとしよう。

こうしたフォース・フィールドを純エネルギーとして受け入れられるじゃないか。

これらの窓やそこのテーブルに張ってあるガラス板も、全く同じだということに気付いてほしい。

では、何でこのことを持ち出したんだろう。あなたたちはすべての物に対してしっかりと決まった概念を抱いている。ところがそれらの概念は正しくないんだ。しかも絶対的じゃないんだ。ガラス板の話を持ち出したのは、そのことに気付かせるためだった。

物の実相はあなたたちが思い込んでいるのと違うぞ。

しかも物を体験するのには、今までと根本的に違う方法がある。この話は推論などではなく、紛れもない事実だ。この事実を半信半疑にでも受け入れるためには、ガラス板をエネルギー場として見なすことが大変便利な手段だ。

では、それについて言いたいことがある。

ガラス板に触ると、「これはガラスではなく、識別できるエネルギーパターンだけかも」と容易に考えられるじゃないか。で、今やってほしいことは、ガラス板に触っている手や肘などは何なのか、質問することだ。

あなたの手や肘などは物質なのか。それともエネルギーパターンなのか。見分けられて触られるほどの安定性と凝集性をもつ、物質がまるっきり含まれていないエネルギーパターンなのか。

イエス・キリストの引用


この話をこのようにしているのは、身体について楽に考慮できる手段を与えるためにだ。身体は物質ではなく純エネルギーだ。しかも純エネルギーとしては神の心の表現だ。神つまり原動力である創造主の心も、物質ではないのだ。

何で身体の形もガラス板の形も保たれるのだろう。

何で、言ってみれば、見分けられるパターンになっているのだろう。

それは、表現されているアイデアには完全性があるからだ。完全性がそのアイデアにあるのは、神がそのアイデアを、言わば、考えているからだ。

この点に重きを置くべきだ。

身体は物質でもなく、固体でもなく、純エネルギーだ。固体のように見えるのは、神の心に抱かれているアイデアの凝集性による現象だ。よって、身体に現れる欠点は、強制的に押し付けられる現象じゃないということになる。言っておくけど、わたしが言う「欠点」には、身体的なゆがみや病気、けがなどの形跡だけではなく、身体の各部分が表現する得も言われぬ美しさに満たない形跡も含まれている。

強制的じゃないのは、なぜだろう。

身体が粉々に砕けないようにしているのは、物質の法則ではなく、完全性だ。この完全性は、神が心に抱いているアイデアを支え、あなたたち一人一人のように見える。その上、あなたたち一人一人を現す物、すなわちそれぞれの身体のようにも見える。

物理法則は時間を要するだろうけど、身体には物質性がいささかもない。だから、いわゆる物質が物理法則によって変化するのを待つ必要はない。

不可能と思われている事柄にも、完全性がかかわるものだ。

腕や足が短すぎる、または切断されたという現象は実在しない。また、目が損傷し、瘢痕組織に覆われているので見えるようになる見込みがないというような現象も実在しない。

なぜ?そんな目や腕、足など身体のどの部分も、依然として、神のアイデアとして神の心中に抱かれているままだ。また、依然として、神の表現の完全性をもっている。そればかりか。神の臨在の完全でない現れは、何であろうとも、それ自体のゆがめられた形を維持することができないものだ。だからだ。

イエス・キリストの引用


よって、治癒は即座に起こってもおかしくない。エネルギーパターンが再構成されるのには、時間がかからないからだ。

よろしいか。

原子や物質が物理的に再生するのには時間がかかるものだ。しかし人の実相を表現する完璧さと調和の形に到達するのには、そんな物理的な再生過程のために待つ必要はない。

もう一度言う。

身体のどの部分も物質ではない。しかもエネルギーパターンをずらすのには力が用いられない。だから再構成には時間が必要ではない。

じゃ、ファッション雑誌のような身体部品専門カタログを見て、気に入った部品タイプを選び、自分の身体を思うままに変えれるかなと考えている人もいる。おもしれえ!わたしが指摘しようとしているのは、人が経験している奇形はどれも、まさにその過程の結果だということだ。

人の存在をもたらしているのは、神が抱いてきたアイデアだ。神は今という瞬間にもそのアイデアを抱いている。しかし人はそのアイデアと矛盾する、自分の身体についての信念・態度・概念を選んでしまった。人が経験する不調和や病気・苦痛などは何から何まで、その結果なんだ。

だから治癒は、自分のほしい容姿についての独創的なアイデアを自分で抱いた結果ではない。

かえって、自分のほしい容姿についてのアイデアから手を引くことだ。また持たなきゃならんと思う容姿についてのアイデアから手を引くことだ。かつまた事情があったので仕方がないと思い込んでいる容姿についてのアイデアから手を引くことだ。そうしたら、次のことを言うことだ。




「神が心中に抱いている、僕の存在をもたらすアイデアを経験したい。僕自身の臨在である神のアイデアを経験したい。それを一瞬一瞬、神が意図している通りに経験したい。そのアイデアは、僕自身のことが経験されるようにするエネルギーをパターン化する霊なのだ。僕は、自分自身がまったく美しく見えないこと、また完全な健康・均整・調和の顕現を経験していないことを正当化するために、理屈を意識的に並べ立てた。けどその理屈をすべて手放す。その替わりに、神から生じている進行中のアイデアの中に、抵抗せずに沈む」と。

さて、「神をたたえる」ということについては、聞いたことがあるじゃないか。それは賛美歌を歌うことだと思っているだろう?

しかしね。

自分の身体について、わたしが今説明したような異なる態度、すなわち快く自分の身体を見ながら、「自分は、自分の身体を今このように経験しているが、それをもたらす理屈を快く手放し、ちょうどここ、すなわち自分の身体が位置する場所で、神の意向を経験したい」という態度を採用すれば、神にチャンスを与えることになる。要するに、あなたはもう神の臨在を妨げていないから、神は自らの臨在を明るくすることができるようになる。

こうして神の臨在が自ら顕現するように自分の手を引くことによって、あなたは神をたたえていることになる。

よろしいか。

では、あなたたちはすばらしい教訓を持って帰ることができる。お家に帰り、宗教や霊的思想のにおいを余計に放たないで、神をたたえることができる。次の事を言うことによって、神をたたえることができる。

「神は僕自身の臨在を構成するアイデアを抱いている。僕は、神がこのアイデアで意図している事柄を経験したい。物理法則によって調整される物質はここにない。いささかもない。だから、そのアイデアの完璧さが僕の経験に現れるのには、時間がかかるとは限らないということを知っている。あるのは、エネルギーだけだ。微妙な、無形のエネルギーだ。力なしで、また時間なしで移れるエネルギーだ」と。

では、これをやっても、今夜床に就くときになったら、「チェッ、効果はこれっぽっちかよ」とこぼすかもしれない。




それは、あなたは治癒がもっと早く起こるはずがないということを正当化する理屈を、ある程度、まだ活性化しているということだ。理由はそれだけだ。物理法則を認めざるを得ないわけじゃないね。

それでも大丈夫だよ。

理由が分かればいい。

分からなければ、慣性の法則は物理的に事実だとか、物質は慣性の法則に従うので独りでに変化するわけがないとか言って、身体が実際に物質だと思い込んでしまい、意気消沈してしまうものだ。しかし理由が分かれば、意気消沈しないでやり続ける。

「でもさ、この奇形という問題は、あたしの子供のころからずっとあったのよ」とか、「わしゃぁ環境に対する反応性を持って生まれてきたんじゃん」とか、「くっきりと見えてきちゃったんで変わりっこねえべ」とか強情を張る声が聞こえる。

あなたたちは、自分の発しているその言葉で、自分のシナリオを今書いているところだ。分かる?

30年も、40年も、50年も経験してきたからではない。自分がいるちょうどその瞬間に、ある定義を下しているのだ。ある言葉を発しているのだ。身体というエネルギーパターンの集積の経験は、移ろうとしているのに、自分の書いているシナリオで、その移りを経験する機会を拒んでいるのだ。

けれど、瞑想などで、思考が休止になっている、安らぎの境地の中へと沈むと、身体は、もっといい調和、もっといい調子、もっといい凝集性を直ちに反映しはじめるものだ。なぜ?思考が休止になっている間に、「身体の凝集性や調子がより乱れてきた」とか、「健康状態が悪化してきた」とかまくし立てる理屈が意識的に活性化されていないからだ。それだけの理由だ。

だから触られているガラス板も、ガラス板に触っている手も、エネルギーだ。エネルギーパターンの集積だ。そのパターンの集積は心によって生じさせられている。また心によって確立され、維持されている。この心は神だ。

イエス・キリストの引用


神は分割されていない。しかも分割され得ない。ゆえに、このパターンの集積も分割されていない。しかも分割され得ないはずだ。分割されていなければ、対立や不調和、不順などを現すことは有り得ない。

物質の非物質性というこの話はどれほど重要か。

今解散したとしても、あなたたちはお家に帰り、半信半疑でもこのアイデアを暖めたら、一人一人にとって変換の過程が引き起こされるものだ。しかもお家に帰り、このアイデアを等閑に付したとしても、それがちゃんと温められるものだ。

このアイデアを言葉にした理由は、あなたたちがそれを耳にし、後で思い出せるためだった。どんなときでも、いかなる欠陥や不調和を経験することは、神の子の権利を侵害する押し付けだからだ。

しかもとりわけ不当な押し付けだ。

なぜなら、神のアイデアの臨在に対しても、また神がそれらのアイデアを顕現させることに対しても、実際に抵抗できる法則もなければ、いかなる物質も、構成要素もないからだ。

そういうわけで、いかなる奇形や病気、不調和などが1ミリ秒も続く理由は何もない。妄想と異なる事柄を快く受け入れるかどうかは別の問題だけどな。自分の経験がもっと豊富になることを渋っている気持ちを除けば、どのときにも、完璧さの即座の顕現を妨げている、また妨げることができるものはない、ということを知ってほしい。

さて、エゴには父も母もなければ出所もない。エゴは必ず不親切だ。

エゴは、あなた自身のせりふであるかのように、次のことを言う。「そうか、この苦汁は、何から何まで僕自身のせいだったのか」とか、「自業自得だったのか」とか、「犯人はずっと僕自身だったのか」とかだ。

それで罪悪感という道草を食わせる。

「僕は、自分の足指や足首・膝・足・全身などというアイデアを神が意図した通りに経験したい」ということが言えるのには、好奇心が必要だ。しかしその罪悪感という道草を食っている間に、好奇心を起こす能力が働きにくくなる。

それだけではない。

その罪悪感を避け、純粋の好奇心をもって今という瞬間に近づこうとするとしても、エゴから逃げ切ったわけではない。自分の考え方と信念を素早く手放さなければ、エゴは次のことをあなたのせりふとして言い出してもおかしくない。「この話はラージュさんにとっては事実だろうけど、僕にとってはそうじゃない」と。

それが新たな道草になる。

快く言うべきことは、「自分に見える物の本当の意味は、自分の思い込んでいる意味とは本当に違うのか。そうすればその本当の意味を経験したい」とだ。それは好奇心を表す単純な表現だ。なのに道草に気が取られてしまう。




そして次の考え事でさらに道草を食う。「でも、それをうまく成し遂げた人には会ったことがない」とか、「即座の治癒についてあっちこっちで聞いたことはあるけど、僕には起こりやしない」とかだ。

じゃ、あなたは歴史を手放さなければならない。

自分の過去の経験を手放さなければならない。

目覚めているところが含まれていない経験を手放さなければ、目覚めるわけがないじゃないか。目覚めの経験がなければ、過去の経験を物差にしで未来を推し量るのを止めるべきだ。

いいか。

過去2千年の間に誰一人昇天した人がいないと言うのか。だからどうだって言うんだい。

この惑星で過去2千年の間に、目覚めた人がほかにいないと言うのか。だからどうだって言うんだい。

「僕は神のアイデアの臨在そのものだ。そして僕の身体は神のアイデアの臨在そのものだ。神がそれらのアイデアで意図した、また意図している意味を経験したい」というのは、あなたの祈るべきことだ。それが、神をたたえるために扉を開ける方法なんだ。

物質が存在しない。だから神の存在という運動を妨げられる物が存在しない。それを常に思い出せば、即座の治癒が起こり得ないということを正当化する理屈を最小限に抑えれることになる。しかも、霊的思想の用語一個も口に出さなくても、あなた自身の臨在そのものをもって、神をたたえることになる。

それじゃ、休憩しよう。





ワシントン州キングストン村
1997.2.23集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.06.30

英語原文
目次

K・ヤマダ訳
ACIMロゴ
acim.jp
「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが明かす「病気やけがを削除する方法」