イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など
イエス・キリスト   ACIMとは   目次

ケガ?発病?
一体何が起きてるんですか?

イエスキリストからの胸を突く答えとは・・・
Raj Gathering

質問者(男):3週間前、おれ、目と目の間へ強打食らったんです。3回目だったんですよ、3回目。まったく同じ箇所へ、がーんと。おまけに次の日、おれC型肝炎だと診断されたんじゃないですか。

何でこの憂き目を見なきゃなんねえんですか、おれが。一体何が起きてるんですか。

ラージュ(=イエスキリスト):何でおれがって?理由なんかないですよ。

正当化できる理由が本当にあるとすれば、とんでもないことになるぞ。というのは、あなたはその憂き目から開放されなくなるってこと。でも幸いに、そういう正当化できる理由は実在しない。

その憂き目は今にもふっと消えうせてもおかしくない。

いいですか。望ましいものは治癒なのだ。災いが降りかかった理由ではない。



「しかし、これから同じような災いを避けるために、その理由を突き止めたほうが賢明じゃないか」とあなたは思っている。でもそれも「神の天地創造が完全無欠であれば、おれたちが妄想に捕われるようになった理由は何だ」と聞くのと同じく、道草なんです。

今のままでは、あなたの経験は究極ではない。あなたは気づいているじゃないですか。だから自分の経験がもっと究極になるように集中すればどうですか。

危険というものは究極の経験にはない。なのであなたの身の上のことで、神はこれっぽちも気に病んでおられません。

いいですか。究極の状態に対するあなたの無知、すなわち実相世界に対するあなたの盲目は、がっちりと固定したものではない。それどころか吹けば飛ぶものですよ。

イエス・キリストの引用

だから、あなたの妄想を正当化するのをやめ、実相世界への好奇心を持ち続けるといい。あなたの妄想を理解しなくてもいい。また、その妄想に陥るに至ったいきさつを理解しなくてもいい。

実相世界はあなたの目と鼻の間にあるし、あなたを締め出すバリアは実在しないしね。

なのに今ここで、あなたは実相世界を実相のままで経験していない。要するにあなたはこの世の実相だけでなく、自分の体の実相も、普遍的なままでは経験していないわけです。わたしが好奇心の話ばかりするのは、そのためです。

では、何でこの経験を逃しているだろうか。



あなたはこれを拒んでいるからだ。だが、拒む理由を探らなくてもいい。自分がいる場所の実相への好奇心を活かしさえすればいい。

「憂き身を見るのは何でおれなのか」と聞くのをやめな。

「実相を発見するのは何でおれじゃねえのか」と聞けばいいじゃないか。一から十までは神のことだということ、そしてあの災いはただの錯覚だということを発見すればいいじゃないか。

自分が実相に逆らっていた結果で災いが降りかかったということをくよくよ考えてはならない。そんなくよくよでは、自分がしでかしたことによる罪責感が迫ってくる。そうすると、元の災いだけでなく、罪責感と取り組む羽目になる。

そんなごちゃごちゃは要らん。

必要なのは好奇心だけなんです。

あなたのいる場所では、神の存在という運動のほかには何も行われていない。この運動が実際にどのように展開しておられるのだろうか。これを知りたいという好奇心こそ、災いを解消するものなんです。

自分の災いは加害者のせいだとか、自分が間の悪いときに間の悪い場所に居合わせたので自分のせいだとか、理屈を付けるのをやめな。そんな理屈ではあなたは事実上何もできない。

いいかい?

イエス・キリストの引用

「なんぢらに御國(みくに)(たま)ふことは、(なんぢ)らの(ちち)御意(みこころ)なり《ルカ伝12:32》」とあるじゃないですか。だから父があなたたちに賜う賜物を見たいという好奇心を持てよ、期待を込めて。

御國(みくに)、すなわち父の存在という運動をあなたが意識することは、父のみこころなんだからです、昼夜をおかず、あなたのいる場所でね。

この賜物はあなたの手に入れてある。興味津々とその包み紙を剥がすといい。

だから「何でおれなのか」とくよくよするのをやめろ。神の栄光を見たいという好奇心を持つことだ。



新約聖書の時代に起きたエピソードです。わたしの弟子の一人は病気の子供をわたしのもとに連れてきた。「この病気という天罰を引き起こしたのは、だれの罪ですか、この子の親たちのですか」とわたしに聞いた。

わたしはこう答えた。

「だれの罪だろうと、そんなことはどうでもいい。この病気を好機として扱えばいい。真理が現れてくるのを目の当たりに見るチャンスだ。そして神がすべてのすべてだということを確認するチャンスだ、神の栄光のためにね」と。

よろしいですか。

災いが降りかかったいきさつはどうでもいい。あなたの災いは妄想で実在しないわけです。だからそれには原因がない。この事実の啓示があなたの求めるべきものなんです。

よろしいですか。

常日頃から、治癒を招き、これを受け入れるといい。治癒はいつも受けられるものなんです。

おなかの調子が悪くなったことに気づいたら、口をついて出るのは、「あっ、胃薬を飲まなきゃ」と。または痛みが生じてきたら、「あっ、痛み止めを飲まなきゃ」と。あなたたちは反射的に苦痛を薬で和らげるじゃないか。

そんなときには、

「すべてのすべては神だ。しかも薬を飲むより早く、治癒がささっと出現しかねないということを心得ているのだ。だからこの苦痛が存在しないという実相を見たい」と言ったらどうですか。

これで自分の好奇心および注意の焦点を見いだすわけです。



治癒の体験を常日頃に望むといいですよ、あらゆることについて。そうすれば、この世の実相、すなわち神の存在という運動の本当の事柄の体験を招き入れることになるのです。

あなたたちはこれを十分にやっていない。自分たちの思考パターンと習い性にばかりうつつを抜かしているからだ。

何から何まであらゆることについて、今までなかった明察を経験したいでしょう。そのために、四六時中、もっと能動的に好奇心を働かせるといい。

《一部分飛ばしました――翻訳者》

自分のいる場所で神を見たいという好奇心を持つことです。そうしたら、これだけの理由で、ほかの理由なしで、今夜でも身体に異状なしで帰宅することが可能になるのです。


次の質問者(女):先の質問者の災いは正当化されないとおっしゃいましたよね。

しかし『ACIM(跡講座/奇跡のコース)』には、「偶然というものはない」と書いてあるでしょう?というのは、あの災いは偶然に起きたのではなく、意図的に起こったということになるんじゃないですか。意図的ならば正当化されるはずじゃないですか。

ラージュ:あのね、行われていることは一つだけ。それは神の存在、すなわち神がすべてのすべてとして運動されているということです。

しかし神の存在という運動とあなた自身との間には、フィルターが挟まれている。このフィルターによって、あなたの経験する事柄はゆがめられている。

先の質問者は頭に強打を食らったでしょう?しかもC型肝炎にかかったでしょう?確かに何かが起きた。彼の知覚によれば、そして医者たちの知覚によれば、それはけがと発病ということだった。しかしそれが神の存在運動のままだと思いますか。

とんでもない。神の存在運動のままではない。

神の存在運動のままの出来事には原因はある。しかし彼らの錯覚には原因はない。



では、強打を食らったという錯覚を解消するのには、どうすればいい?答えは、自分の知覚以上のものを見ようとすることです。

それはどういう意味?

ごっつんとやられたら、ウッとうめくじゃないですか。そんなときには、怒らないようにして、待ったをかけます。

そこで、「実相的に何が起こったのか」と問いかけます。こうして実相への洞察を招き入れるわけです。実相的には負傷というものはあり得ないのです。

こうして実相世界を受け入れるのです。その時その時、自分が受け入れられるほどちょっきり、実相世界が見えてくるものです。

「偶然というものはない」とは、神の存在運動以外の出来事が起き得ないということです。よって有害な出来事が起き得ない。有害として知覚される出来事には正当性がないわけです。

あなたが目にした事故は起きなかったわけです。

起きなかったことの説明なんか、あるわけがない。だから求めるべきことは、その説明ではなくて、事故現場での実相を知るということです。

どのように?

あたし、てっきり事故に遭ったと思ったが、ここの実相は何なの?

あたし、下半身が麻痺して車椅子に乗っているようだが、ここの実相は何なの?あたしが身体障害者だなんてあり得ないでしょう?

この障害があたしの実相だなんてあり得ない。これが事実なわけがない。正当性がない。これを立証するものはどこにもない。

だからあたしはそれを手放してもいいと思うわ。神がなさらないことは起き得ない。起きたように見えるこの有様は錯覚なはず。


同質問者(女):それにしても錯覚っちゅうものは本当に起きちゃうように見えますけどね。

ラージュ:だからこそ、事故という錯覚そのものを好機として扱えば、その障害を解消することができるわけです。

事故というものは、意図的に起こるものだとすれば、先の質問者に言ったように、その結果から逃れるはずはない。治癒もささっと出現しない。

「偶然というものはない」とは、事故というものは意図的に起こるという意味ではないですね。偶然に起きるように見えても、事故というものは起きるものではないのです。

神のみこころ以外のことは起き得ないわけです。事故というものはあり得ないわけです。

よって、事故による負傷には正当性がない。正当化できない負傷の経験は妄想にすぎないわけです。




ワシントン州キングストン村
2000年4月30日集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
英語原文


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K・ヤマダ訳
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「わたしはクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
ケガ?発病?一体何が起きてるんですか?イエスキリストからの胸を突く答えとは・・・