イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など
イエス・キリスト   ACIMとは   目次
イエスキリスト、つぶさに説き明かす

神癒の法

(いかなる苦しみにも効く)


質問者:ラージュさん、あなたは数多くの人を癒してあげたんでしょう。わたしの歩行困難を癒していただけませんか。

わたし「醫者(いしゃ)よ、みづから(おのれ)()やせ」という諺を実行しはじめてから歩行能力はまあ、ある程度までは、回復してきたんです。

でもわたしは、ちゃんと、歩けるようになりたいんです、ちゃんと。優雅に、がっちりした踏ん張りで、苦もなく。Raj Gathering

ラージュ(=イエスキリスト):それ、あなたの願望かい。

質問者:はい、わたしの願望です。

ラージュ:じゃ、その治癒を経験しましょう、わたしと一緒にね。

醫者(いしゃ)よ、みづから(おのれ)()やせ」とあなたが言ったんですがね、この諺は慎重を要しています。

醫者(いしゃ)」という言葉には、学識のある賢者という含みがある。それはそれでいいけどね、この諺は、外部からの助けを借りずに治癒を行うべきだと解釈されるじゃないですか。その解釈は上滑り。




あのさ。何より先に癒されるべきものがあるんです。

その癒されるべきものとは、ある狂いだ。あなたたちの自助自立の精神がもたらした狂いだ。これはあなたたち皆にとってそうなんです、例外なく。

で、この狂いを直す方法は?

いいですか。自分の殻の外側のものを招き入れるということです。説明しよう。

昨日わたしは「願望というものは祈りだ」という言い回しを使ったんですね。それについてもっと詳しく話したい。注意してお聞きください。

願望が湧いてきたら、それを一人だけで抱えては損するものだ。欠乏を一人だけで抱えると、その願望は自分だけ持つ欠乏の現れになってしまうからです。

外側のものと一緒に願望を抱くのが賢明。

そういうわけでわたしはこう述べた。「聖霊、または父なる神、またはわたしと一緒に願望すればいい」と。

なぜ?

これが自分の孤立状態を脱出する方法だからです。この孤立状態こそ、自分のことを限られたちっぽけな存在だという知覚をもたらすものだ。だから脱出したほうがいい。




わたしが昨日述べたように、願望が何であれ、その願望を感じ続けることが重要。願望というものは自然に成就するものなので、そのための許可をその願望自身に与えるといい。

その成就する過程の中に、何も持ち込まなくてもいい、また活性化するためのテンションをその願望に吹き込なくてもいい、少しも。

なぜ?

願望というものは、成就するための要素をばっちり宿しているからだ。

さて、昨日は触れなかったが、自分が願望している事柄を突き止めるのには、どうすればいい? まずあえて静かになること。そう、自分の存在という運動の静けさの中に沈むこと。

なぜなら自分の存在という運動を感じたら、その上げ潮に乗ることがやりやすくなるからだ。

この運動は願望を充足する運動なんです。この運動を感じれば、しかもそれが自分自身のものだと実感すれば、それに対する願望を自然に経験するものだというわけだ。

イエス・キリストの引用

さて、あなたは治癒を願望するって言いましたね。それはすばらしい。ファンタスティック。制限というものは経験されるべきものではない。精神的にも、身体的にも。

無制限な自由があなたの天与の権利だからです。

そうゆうわけで外側のものを招き入れるといい。よって、わたしを招き入れたことが正解だったんです。

諸君、このように、わたしまたは聖霊を自分たちの治癒過程に招き入れてもいいですよ。こうして自分たちの孤立状態を囲む殻を打ち破るのです。

この殻が打ち破れたら聖霊が働き出そうとするものだが、これを許せばいい。

聖霊というのは、外側のものではあっても、あなたの実相の存在という運動のことだ。この聖霊はあなたの完全無欠さを、確認できる形にして、明るみに出してくれるものなんです。

一つ言っておくよ。

お手上げで自分の問題を潔く受け入れることは賢明ではない。そういうのが癒しじゃないからだ。癒しとは、紛れもない完全無欠さの現れにほかならない。

イエス・キリストの引用

癒しはあなたの天与の権利。

あなたは自分のことを孤立した存在だと思い込んでいるが、この思い込みこそ、あなたの抱えている問題ですね。

この問題がさまざまな形として現れ得るが、どれにしても、これが自分自身が課した虚偽の知覚だ。厄介なものだ。

だから先ほどの諺の醫者(いしゃ)は、(おのれ)()やすために、何をするのだろう。正解は、自分の虚偽の知覚を見破るために、自分の殻の外側のほうに助けを求めるということだ。

つまり、完全無欠なものと一緒に願望するということですね。

ACIMに述べてあるように、これをやれば、聖霊があなたの苦境をあなたの得に変換してくれるものだ。その苦境がどのように現れているとしてもですね。

なぜ?

これはあなたをえこひいきするわけでもない。錯覚を見破ると、実際に行われているのは全体性だけだとわかる。完全無欠の全体性ですね。いつも、ずっとですね。




なのにあなたは自分のことを独立した存在だと思い込み、一人きりにいるという夢想に憂き身をやつしている。これで自分の全体性はもう眼中にない。

しかし聖霊など外側のものと一緒になるということは、自分が一人きりじゃないということになるじゃないですか。これでその独立した存在という思い込みが揺らぎ、自分の全体性と完全無欠さが現れてくるようになれる。

そういうわけなんです。

神の普遍性をそっくり意識的に経験することはあなたの、言わば、「たどり着くところ」だ。なぜなら、いつまでもこれと異なる事柄を夢想しおおせることは不可能だからだ。

そういうわけで治癒というものは、目覚めと同じく、避けられないものだ。こうしてわたしと一緒にあなたは治癒を経験するのです。

イエス・キリストの引用

では、あなたの役割は? 毎日何をすればいい? これを常に心に持ち続けるべきだろうか。やらなければならないことは?

答えは単純で分かりやすい。

その願望を感じ、その出現を聖霊にゆだねればいい。毎日、自分のことを「わたし」ではなく、四六時中「わたしたち」だということに留意することだ。要するに自分が父なる神・聖霊・わたしと一緒だということにちゃんと注意を向けることですね。

自分の治癒のこれ以外の分担を背負い込んではならない。

あなたが一人だけで物事と角突き合わせているのではないからだ、絶対に。

実相を遮断して自分を孤立させることは愛の正反対の行為だ。愛の行為は実相を受け入れるということなのだ。だから、外側のものと一緒になることは愛の行為というわけだ。




愛は高貴な道だと言われている。

先日この「高貴」について話しましたね。わたしが言う高貴とは、王室や皇室などの性質という意味ではなく、瑠璃色という感じのものだ。または貴族のまといそうな深い紫色のベルベットという感じのものだ。貴族に特に限定しているわけではないけどね

これは存在という運動の本質の豊かさの感触だ。

この存在という運動というのは、あなたの存在という運動のことだ。神の存在という運動だとも言える。

愛は癒してくれるものです。なぜなら愛の臨在の前では、自分のぽつりしと孤立した存在の錯覚が持ちこたえられないからだ。

対象がなければ愛することがあり得ない。

愛していれば、何かを愛しているわけだ、何かをですね。要するにその対象の実相を受け入れているというわけですね。実相を受け入れている間中、自分の孤独状態が停止されるからです。

実相を受け入れるのには、恐れを手放す必要がある。




「愛とは怖れを手放すこと」という名言の通りだ。恐れがなければ、防御がないわけだ。これで自分の実相をことごとく受け入れることができるのです。

「友情」「温もり」「無邪気」「純粋」など単純な表現に注意を払い始めるよう、あなたたちみんなに勧めます。こんな単純な表現は人間の価値観で重んじられているだけではない。

これは、実は、存在という運動の基本的な性質を言い表している。

それに対して、「複雑な無邪気」のようなこちゃこちゃした表現はどうだろう。思考を巡らさなければその意味が見えてこないだろう。

互いにうまく折り合うために、ほとんどの人は心理的プロセスを学ぼうとしている。パートナーシップの中でのウィンウィン関係を築く戦い方を学ぶために、講座を受けている人も少なくない。

しかしそんな学べる技能を忘れ、「友情」というものの意味・フィーリング・質感を探ったほうがいい。そうすれば自分の抱える問題をより早く通り抜けることができる。

生きているという不可避なことは本来、分け無く楽々。

なのにあなたたちはこれをごちゃごちゃにしてしまう。何もしなくても自然に起きるようなことも、煩わしくしてしまう。

イエス・キリストの引用

あのね、見抜きにくい正体だけどね、あなたが経験している問題は例外なく、あなた自身が作り上げたものだ。ほら昨日言っただろう?あなたが実際に作り上げられる唯一のものは、見違いというやつだ。

あなたが抱えている問題は例外なく、見違い。

この見違いとは?

一応「アイデア」という単語を使いますが、この見違いというやつは、統一しない「アイデア」でできている。これらの「アイデア」が、統一した「アイデア」群として扱われ、信じ込まれているものだ。

わかってほしいことは、問題という現象はいつも、見違いというやつの具現だということです。

はい、がんもそうです。運動障害も、けがも、ぎくしゃくな人間関係もそうですね。どのように見えても、問題という現象は見違いの具現ですね、例外なく。

見違いというものは、がちっと固定した物体でもないので対処しにくくない。

イエス・キリストの引用

あなたたちは皆そうだけど、考えがころころ変わるじゃないか、毎日。便所へ直行する途中で片付かなければならないことがふっと目にし、それを先にすますようなことも日常茶飯事じゃないか。

考えを変えることは可能なわけですね。

ACIMのワークブック《第33課》には、「これを見る別の見方がある」ということの練習がある。

いいえ、ACIMを宣伝するためじゃないですよ。この句の真実性を言い表すために言及したんです。
≪表1、開始≫
ACIMの引用
「これを見る別の見方がある」

ACIMワークブック 第33課
≪表1、終了≫
これは考えを変えることができると言っているわけです。

物や事柄を見る見方、すなわちその有様がああだこうだと信じ込む道筋は、決して唯一の見方ではない。だから見違いしている中では、考えを変える方法があるわけですね。

では、考えを変えるのには、どうすればいいだろう。

第一歩は、「これを見る別の見方がある」というエクササイズを実行することだ。この言い回しのままでやってもいいし、自分なりに言い換えてもいい。

1960年代の英語圏には「セレンディピティ」という流行語があった。願ってもないものをふっと発見することという意味だ。すばらしいこっだ。

あなたたちは普段こちんこちんに固定した見方で物や事柄を見ている。しかも断固たる決意で。だけどそんな見方にとらわれていないときは、例の別の見方というやつがひょっこり浮かぶことが可能になるのだ。




あなたは瞬間治癒を、ある程度まで疑っていながら、頭でちょっくら感情的にそれを信じている。でもそれは例の別の見方ではなく、まだまだ自分の通常のがっちりと固定した見方ですね。

その固定した見方で見なくてもいい。

セレンディピティによる、ひょっこり起きる瞬間治癒はいかがですか。

物や事柄を見る別の見方が本当にあるわけです。

そう、自分の体を経験する別のやり方が本当にあるんです。この別の見方でですね、物理的な限界という現象がなく、細胞や組織がなんらかの物理過程によって行動するのでもない。

そういうのは正しい見解だと思われているにもかかわらず、実際は見違いです。見違いですね。事実だとみなされる錯覚なわけだ。

イエス・キリストの引用

だけどあなたは考えを変えることができる。考えが変えられるものだというわけだ。「醫者(いしゃ)よ、みづから(おのれ)()やせ」とは、考えを変えろ、ということですね。

では、考えを変える一番いい方法は何だろう。

先ずは言っておくけど、「考え」と一般に思われるものは、記憶からしか成り立っていないものだ。だからその意味で考えを変えても、ある記憶が別の記憶に置き換えられるだけで、埒が明かない。

じゃ、どうすればいい?

自分たちが真実だと思い込んでいる事柄は本当の真実ではないので、まずは、その思い込みを保持するのを拒否しておくこと。

そうしたら、その本当の真実、すなわちその実相を知りたいと願望すること。

あなたのアイデンティティ意識は、今のままでは、独特に配列された無知によるものにすぎない、ただの信念の一群というわけなんですね。だからこのアイデンティティ意識をよりどころにしないで、物や事柄の実相を求めること。

どうやって?




神に手を伸ばす。または第四次元の自分自身のことである聖霊に手を伸ばす。こう頼む。

「助けてください。この実相を分からせてください。あなたを招き入れ、あなたと一緒になります。私自身の完全性という実相を明らかにしてくださるために、あなたに耳を傾けます」と。

はばからなくてもいいぞ。

「おれ、神罰を受けるかも」とか、「罰が当たるぞ」とかいうせりふはよく耳にしますよね。こりゃなんて空しい概念だなぁ!神のことに対する、無意味な概念。神罰だなんて、 ただの迷信。

実際は神は、自分のすべてをそっくり自分の自己表現に与えているわけです、何一つ惜しまずに。

神の自己表現とは?あなたの自我のことではない。この自己表現というものは表現されている神自身のことだ。

はい、それは確かに利口ぶったような言い回しですけどね、これで重要な指摘をしています。

イエス・キリストの引用

陶工(すえつくり)(おな)土塊(つちくれ)をもて、(これ)(たふと)きに(もち)ふる(うつわ)とし、(かれ)(いや)しきに(もち)ふる(うつわ)とするの(けん)なからんや《ロマ(びと)への(ふみ)9:21》」

神は自分自身を表現するのであり、自分自身でないものを表現しないということなんです。自分自身だけを表現するわけです。

ついでながら、わたしが「父なる神」という言い回しを頻繁に使っていますが、これは言葉のあやですね。これを「母なる神」とでも解釈してもいいですね。

では本題に戻りますが、父なる神は自分自身を表現するものですね。で、この自己表現は自分自身の延長となっている。要するにこの自己表現とでは、神のことが倍増するというわけだ。

この自己表現は、神から分離したものではない。分離して別の有り様に化けるわけではない。この自己表現は、分離によってではなく、延長によって行われるわけですね、果てしなく。




神は自分をかたどって自分のかたちに人を創造したという、創世記の記述も同じことを言っている。

要するにあなたのことは、神から分離していない、神の臨在にほかならないというわけです。

なのにあなたたちは皆、五感にしか頼っていないじゃないですか。存在という運動の全貌は広大無辺。果てしない無限。しかし五感では、これをちょぼちょぼとしか経験していない、とぎれとぎれに。

これでは、自分のことをちょこんとした存在だと思い込んでしまう。無限大の中をぽつりと生きているようだ、森羅万象から分離している。しかもケガや病気など辛酸をなめかねない心境に陥っている。

しかしあなたのことは、心の存在そのものなんです。

心の存在? 換言すればあなたのことは、あの「オブサービングセルフ」というやつ、すなわち自分自身を常に観察する意識そのものです。

これはすべての意識的経験を宿す究極のものですね。

これらの意識的経験はちょうど今、あなたの中で行われている最中だ。そう、あなたのことはすべての意識的経験を宿す究極の意識なわけです。

そういうわけであなたは、今の状態でも、自分のことが物質ではなく、心だということを把握できるはずだ。そう、心なんです。身体というものは、意識的経験としてあなたの中に宿っているものだ。
≪表2、開始≫
ACIMの引用
「わたしのことは身体ではない。神が創造してくださったままに、わたしは自由」

ACIMワークブック 第201課
≪表2、終了≫
「わたしのことは身体ではない。神が創造してくださったままに、わたしは自由《ACIMワークブック第201課》」 では、全知の究極の意識について話しましたが、これはどういうものでしょうか。

意識というものが存在するということは、意識する対象が存在するということになる。意識の対象がなければ意識が存在するわけがない。

聖書には、「(かみ)(その)(つく)りたる(すべて)(もの)()(たま)ひけるに(はなは)()かりき・・・《創世記1:31》」と記されている。

ついでながら、わたしが以前に指摘したように、この「(はなは)()かりき」ということは嘘ではないが、誤訳です。正しく訳出すれば、「正に自分自身だった」となりますね。神は自分自身を見て、見ている光景が自分自身だと分かったという意味です。

全知の究極の意識で見て分かったわけですね。

これは気持ちいい経験だ。なぜ?存在という運動の完全性を経験しているからだ、分割できない完全性を。

イエス・キリストの引用

さて、わたしはべらべらしゃべっていたが、果たしてこれは本題に関係あるだろうか。関係あるよ。何から何まで関係ある。神のことを説き明かしていたが、これはあなたの実相にも当て嵌まる。

これに気づけば気づくほど、あなたは自分のアイデンティティに対しての欠如した解釈を手放す勇気が増す。そうしたら、自分のことを身体だけだと見なすのをもっと楽にやめられるようになるのです。

この気づきでは、自分の人生の経験が偏っているということが明らかになる。

偏っているというと?あなたは自分のことを形状の世界の中にある塊だと思い込んでいるが、それは逆だ。あなたのことは形状の世界の中にあるのではなく、形状の世界があなたの究極の意識の中にあるのです。

あなたのことは本来、推測や論理など思考力で知る意識ではなく、何もかも直接知っている意識だ。つまり全知そのものだというわけですね。

イエス・キリストの引用

実相世界をくっきりと浮き彫りにするパズルのピースはすべて既にテーブルの上に置いてある。これを理解しなければなりません。

これらのピースはすべて、今、あなたの経験の中にある。しかも、自分のアイデンティティを身体から離して究極の意識に移すにつれて、ひずみが補正されるのでそれぞれのピースが見て取られるようになる。

形状という現象は目に見える、また指で触れる、神の心の運動のある要素ではある、確かに。とはいっても、自分のことを究極の意識として自分の実相を経験したほうがいい。

自分のことを形状として形状の世界に憂き身をやつせばやつすほど、自分の実相を経験することができなくなる。

そうしたら自分の天与の展望を見失い、自分にかかわる各形状はぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう凝縮してしまう。それらの形状は凝縮すればするほど化けてしまうものだ。




要するにあなたの天与の自由と無関係に、壊れたり病気になったりするように知覚されるわけですね。挙句の果ては病気や罪、死などが引き起こされる。

あの『人間の堕落』という例え話もそういうことだ。あなたの天与の展望は広大無辺で、神という運動の可視的な具現をすっぽり含んでいる。あなたのアイデンティティはこの天与の展望にあるはずだ。

しかしあなたは自分のアイデンティティを、この展望からその可視的な具現のほうに移ったのだ。

まさに堕落ですね。

これは展望の移りだ。第四次元から第三次元への移りというわけだ。この移りの中では、あなたは自分の束縛されていない無限性の経験を犠牲にし、隔離された孤独性の経験を始めた。

どうやって? 注意の焦点を絞ることによってだ。要するに、自分の束縛されていない無限性を利用することで、自分の全体の中にある数ヶ所にだけ焦点を絞ったということだ。

イエス・キリストの引用

あたかもジグソーパズルのピースがじゃらじゃらとかきまわされ、ごちゃごちゃになってしまったようだ。

これであなたはここから1枚のピース、そこからもう1枚、あそこからもう1枚を手に取っている。「よーし、この3枚を組み合わせてみよう」と決めた。互いにかみ合わない3枚だ。

なのにあなたは片意地を張るばかりで、その3枚にしか注意を払おうとしない。ほかのピースが全部テーブルの上に置いてあるのにね。

「かみ合わせる方法を絶対に突き止めてやる。こいつらは神の体制に属するんだから神性なわけだ。どのピースも、ほかのどのピースとも、きっちりとかみ合うはずだ。かみ合わせてやるぜ、必ず。雨が降ろうが槍が降ろうが」と屁理屈をこねる。

そうしたら槍が降ってき、むごたらしい事態が生じた。

肝に銘じておけよ。あなたは数枚しか受け入れていないが、ジグソーパズルのすべてのピースはいつもテーブルの上にある。

同じく、あなたの天与の正気のすべての要素も、今にも、あなたと共にあるんだ、ばっちりと。

イエス・キリストの引用

しかしあなたは自分の注意の焦点をぐっと絞り、自分のことを形状の世界の中にあると見なしている。形状になったからには、身体の調子が悪くなりかねないし、境遇もごちゃごちゃになりかねない。

しかしそうならなくてもいい。

自分の全体性は自分の眼前にどっしり居座っているからだ。といっても自分の眼中にはない。この全体性こそあなたの神性の意識だ。全知の究極の意識だ。あなたの真のアイデンティティなんですね。

あなたはいまだに神性の意識として機能しているよ。

でなければ何も意識していないはずだ。あなたの神性はちゃんと機能しているし、あなたはこれを利用しているのだ。ただ自分のアイデンティティがこの神性にあるということを忘れているだけだ。

あなたはそこで座っていながら、振り向いて窓の外を見て、美景を眺め、目の保養をすることができる。これで頭に付いた目玉が利用されていることをまったく意識しなくてもできる。

でもその目玉が存在しなくなったわけではない。自分がそれに注意を払っていないだけだ。

ろくろに粘土の塊をのっけて回す間、また冷蔵庫から材料を出して料理する間、自分の注意は自分が作っている物の形のほうに向けられている。自分の手のほうに向けられていない。




なのに手はちゃんと存在し、あれこれやっている。自分の注意がそれに向けられていないだけだ。手のほうに注意を向けなくてもいいからだ。

同じく、あの神性な心である無限の臨在、すなわちあなたの実相はちゃんと機能している。あなたは注意をそれに向けていないだけだ。

自分の実相の中で行われている、限られた事柄に気を取られているからだ。で、あなたはその限られた事柄のほうが自分のことだと言い張っている。

それが狂気。

この狂気はあなたの正気によってもたらされていますね。でもあなたの注意が狂気のほうに向けられていても、自分の正気が消え去ったりするわけではないですね。

比ゆ的に言えば、以前にも述べたように、あなたたちはみんな、天国のど真ん中で座っていて、目をぎゅっとつぶったまま、「完全無欠というものが見えないよ〜」とぼやいている。

あなたの全知の意識は、天地創造という果てしない運動そのものだとも言える。

ちょうど今も堂々と行われつつあるよ。

これこそあなたの本当のアイデンティティ。なのに、「自分のことをその果てしない運動の中にある、ちょこんとした一つの存在にすぎない」とあなたは一点張り。

それは見違いですね。

でもね、この見違いを抱くことができるのは自分が神性だからだ。そして自分が神性だからこそ、今にも目を覚ますこともできるのだ。




この見違いは実相世界の外側で行われているわけではないし、非実相の世界を実際に繰り広げているわけではない。この見違いは自分の注意を払う過程に持ち込まれた偏りにすぎないものだ。

あなたは意地を張り、「この3枚のピースだけに専念したい。これらは神性なら、自分の思う通りに互いにかみ合うはずだ」と理屈をこねている。

あなたはかみ合わない物を無理やりにかみ合わせようとしている。とはいえ、この意志はどうでもいい。この心理状態もどうでもいい。

どうでもいいですね。

また、自分の中に潜むこの破壊的な要因を突き止めるために、この心理状態を正す必要もない。それもどうでもいいですね。

じゃ、どうすればいい。

あっさりとギブアップし、立ち上がってテーブルを見下ろせばいい。

そうしたら、すべてのピースがばっちりそこにそろっていることを発見し、手もなくそれらをかみ合わせられるということに気づくのだ。

誰も彼もアイデンティティを肉体にあると思い込み、自己改善に励んでいる。これで心理学が出現した。

よろしいですか。病気もその思い込みから生じた現象だ。

あのね、この話は脱線しているようですが、すべてはちゃんと核心につながっていますから、ご安心ください。

イエス・キリストの引用

さて、テーブルから立ち上がり、展望をぱーっと開くのには、どうすればいいだろうか。ある単純な愛の行為を実践すればいい。

あなたたちは一人ひとり、実相を遮断し、自分のことを森羅万象から分離した単独の存在だと思い込んでいるわけですね。わたしが言っている単純な愛の行為とは、実相を遮断しないで、何かまたは誰かを自分の単独の世界の中へ招き入れるということだ。

そうすればジグソーパズルの全貌が見えてくるものだ。

全貌はとても有意義なわけですね。全貌が見えてこないままでは、目と鼻の間にどっかと居座っているものが見落とされがちだからだ。

ポール君《=チャネラーのP・タトル氏》もね、このような見落としをしでかしていた。彼はまるまる6ヶ月間わたしと対話をしていたところまでは、死という現象が実際に起きないという事実をずっと見落としていた。




わたしとの対話だけが生命が永久不滅だと実証していたのにね。彼はまったく気がつかなかった。対話の内容のほうにうつつを抜かしていたからだ。

あなたたちもみんな明白な事柄を見落としているんです。

あのね、確かに、わたしは同じことを何度も繰り返してきたが、勘弁してくださいよ。これは反復効果の活用なんです。

ええ、広告業界で利用されている反復法なんです。新商品が発売されたらその集中的なキャンペーンが行われるんじゃないですか。CMが大体6回も触れられなければ覚えられないからだ。その反復法なんです、はい。

では、肝心なのはジグソーパズルのピースが最大漏らさず、テーブルの上にのっかっているということですね。

あなたの実相はばっちり、そこで臨在し機能しているのだ。ちょうど今。霊的な成長を成し遂げた将来に現れてくるものではない。

すべての要素、すべての次元4つとも、ちょうど今、ばっちり機能しているのだ。

この4つの次元はあなたのことです。

あなたは、肉体や日没、木々、椅子などを意識的に経験している。しかしこれらの経験は存在という運動の意識的な経験の中で行われているものだ。

いいですか。あなたのことはこの中で行われているものではなく、あなたのことはこれをすっぽり囲む存在という運動の究極の意識なのだ。

じゃ、どうすればいいんですか。

注意の焦点を移せばいい。肉体から存在という運動の究極の意識のほうにですね。この意識というのは、物体としての意識ではなく、心の臨在としての意識だ。ず〜っと行われている心の不可避の臨在としての意識だ。

ある有名なたとえ話では、ある小魚は母魚にこう聞いた。

「母ちゃん、母ちゃん、水というものがあるって本当?それはどこにあるの?」 と。

同じく、「母ちゃん、母ちゃん、ぼくちんのことがね、『何もかも直接知っている究極の意識だぞ』、とイエスさんがこう言ってたんだけど、それを体験するのにはどこへ行けばいいの?」




当然ながらこの究極の意識があるからこそ、この質問が聞けるわけだ。

とはいってもこの質問に捕らわれてはならない。かえって質問から一歩離れて、静かになり、その静けさの中でこの究極の意識を体験すればいい。

これこそ、質問の答えというわけです。

これでは、自分のアイデンティティが移るのです。肉体から究極の意識にですね。そう、全く遮られていない、全知の意識にですね。

これは「空虚の中への飛び込み」とも呼ばれる行為だ。でも本当は、空虚ではない。普遍的な意識は空虚どころではない。飛び込むとき、空虚のように見えるだけだ。そういうわけです。

小魚が水と空虚を見分けられないようなものだ。これを空気にたとえることもできる。風を感じていなければ空気のことが頭をよぎらないものだ。

全知の意識への移りが深まるにつれて、形状という現象の濃度が低くなるものだ。神という運動の顕現が解凍されるわけだ。

というのは、あなたたちの世界では、天地創造という運動の、目に見えたり手で触れられたりする様相はぎゅーぎゅー圧縮されているが、全知の意識のほうへ移るとそれがふんわりと元通りに戻るわけだ。

なぜ?

あなたの偏見がなくなり、実相世界に対するゆがみが緩和するからだ。これは癒しとなる。完治だよ、完治。

イエス・キリストの引用

では、ひとつだけはっきりさせておきたい。あなたの求めている神癒(しんゆ)は、自分が完全に目覚めて昇天《=成仏》してから享受するものだろうか。そんなことない。そんな前提はない。

だから、「そんなこっちゃ、わたしにはやっぱ無理、無理、無理」と言って嘆かなくてもいい。

それじゃ問題がどろどろになり、癒しに対する抵抗を呼び起こすだけです。

先ほどの圧縮状態から元通りに戻るということは、癒しを享受する条件ではない。その話はみんなの思い違いを晴らすためと同時に、癒しがそれほど難しくないということをあなたに知らせるためだったんです。

ジグソーパズルのすべてのピースはテーブルの上に置いてある。

あなたが値するまで取っておかれたピースはない。あなたが天国の門に到着するときまで取っておかれたピースはない。

すべてのピースはすでにテーブルの上に置いてある、あなたの中に、今。これらを組み立てると、あなたの実相となるのです。



バーモント州レイク・モーリー
1992年10月集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
英語原文



目次
し ん    ゆ
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「わたしはクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
イエスキリスト、つぶさに説き明かす神癒の法(いかなる苦しみにも効く)