イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など
イエス・キリスト   ACIMとは   目次
イエスキリストが明かす

運命をかなぐり捨て、実相世界
を生で体験する方術

(病気・怪我も消える)
Raj Gathering

質問者:ACIMに明々白々述べられていることなんですが、人生経験というものは、出来上がったシナリオのようなものだということです。要するに、一から十まではすでに過ぎ去ったことだというわけです。そうするとシナリオを選ぶ以外は、自由というものはこれっぽっちもないということになります。

この解釈は合っていますか。

ラージュ(イエスキリスト):それをさらに平たく言えば、唯一の選択は二つに一つ。それは自分のシナリオの通りに生きていくか、それとも、そのシナリオをかなぐり捨てるか、ということですね。

シナリオを取り替えるとしても、依然としてシナリオの通りに生きていくわけです。

質問者:ACIMによれば、実在するのは愛に満ちた果てしない意識だけでしょう?そして僕たちの世界はただの妄想にすぎないでしょう?しかもこの妄想では、わたしたちは限られたエゴ範囲を経験しているでしょう?

これでシナリオを手放せば、体を持つ経験もぱっと消えてしまう羽目になるんじゃないですか。

僕の解釈は合っていますか。

ラージュ:この世も、この世での経験も、錯覚や妄想で歪んでいる。と言っても錯覚や妄想というものは、すっからかんの空白から生じることはあり得ない。実在する事柄がなければ、錯覚や妄想が生じるわけがない。




シナリオを手放せば、体のような実在するものは消えたりはしない。消えるのはその錯覚・妄想の部分だけです。

これは心に留めておくべき重要なポイント。

あなたたちの知覚ではわたしの体は実質がないように見える。だが体がないわけではない。わたしの知覚ではこの体は純粋な実質なのです。

体というものは、個人性を意識的に経験するものの現れだ。しかも個人性の普遍性を意識的に経験するものの現れでもある。常しえにね、ずっと。

「錯覚」や「妄想」などの言葉の使い方を慎んでくださいね。

使い方が正しくなければ、物事の値打ちがぱーになるように見えてしまう。そうすれば当面の間、何もかもが空しくなり、充足感はよそでしか経験できない白昼夢になってしまう。

これはうっとうしい。しかもこれで信頼も、希望も、愛も、平安も、《カチャカチャ》もなくなる。《録音テープ切り替えで数秒飛ばされる》

...あなたの目と鼻の先にあるのは実相世界だけなんです。だがこれに対してあなたの知覚はかなり歪んでいるので、この世と実相世界との間には錯覚がごまんと挟まれているのです。

この部屋の中にある物も、窓の外にある物も、どれもこれも、実相的な意味として存在している。それぞれは、生命の本源である神の無限大の現れの一部なわけです。

でもあなたの知覚と違って、物というものは死ぬことも、劣化することもできない。それぞれの物はしっくりと息が合っている。見事な調和で、神の全体性、またあなたの存在という運動の全体性を現しているのです。




そういうわけで、次の2点をあえて念頭に置くといい。

一つ目は、万物に対する、あなたたちの今のままの経験は乏しすぎ、経験可能な事柄はまだまだ山ほどあるということです。

二つ目は、あなたたちが知覚する事柄は錯覚まみれだということです。

この錯覚まみれの知覚をクリアすることは、まさにあなたたちの新たなフロンティアだ。あなたたち一人一人を待ち受けている大冒険です。

じゃ、どうすれば、このすかっと澄み切った知覚が体験できるのか。

そうですね、まずは、あなたの今のままの知覚が不正確だということを、たとえ半信半疑としても、認めてみることです。

そうすれば ―― いいえ、憂鬱になったりはしないよ、絶対に ―― 好奇心がむらむらとくるものです。目と鼻の先にある物は本当は何なんだろう、どのように見えるんだろう、と知りたくなるわけですね。

この好奇心というのは「欲求」と言い換えられる。

「おれの目に映っている物の実相の姿を見たい」「この物の実相の意味を知りたい」「この物の実相の意味を体験したい」と。こういう欲求なんです。

これこそ、自分の錯覚まみれの知覚をクリアする方術なんです。

錯覚という曇りを通り抜け、かーんと澄み切った知覚に達し、物の実相が見えてくるわけです。




万物は絶滅されやしないけど、非常に異なった感じで経験されるものです。

でも早合点しないようにね。目覚めるまでの過程では、この澄み切った知覚に達することは、さっと一気に起こるようなことではない。そのように起こったとすれば、自分の個人性の連続性には裂け目が入ってしまう。

あたかも自分がいきなり別人に変容したようなことになるわけだ。でもそのようには起こらない。そんなぞっとするようなことにならない。

澄み切った知覚は、もっとこう、じんわりじんわりと展開するものです、あなたが受け入れられるほど早く。この展開とともに自分の完全性も生き生きと経験されるようになる。

自分の完全性はありとあらゆる物の中でも経験されるものです。なぜ?一体性があるからだ。生命の本源の無限大の現れには一体性があるわけだ。この一体性はあなたのことにもあるんだよ。これは不可欠な要素なんです。

では、話の核心を突きよう。

澄み切った知覚では、わたしの体は物質的な実体が全くなく、光でできているものです。ライトボディというわけです。

実在する生命体はどれも光の形態なんです。これは変えられない事実。

あなたがそこに座っていながら肉体を持っているように見えるけど、ちょうどそこには、わたしのと同じようなライトボディがあるわけです。

わたしには見える。

この会場にいる出席者全員は照らされていながら照らしているのだ。人だけでなく、ほかの形態もみんなそうなんだ。肉体の実相はライトボディです。個人性を明瞭に現すライトボディなんです。

光と愛とは同じものなので、ライトボディは純粋な愛だとも言える。

あなたはこの事実に目を開こうとしているところだが、目を開いたらこう口に出す。




「うわあ!おれの体は本当はこうだったのか。今まで見てきたものは何だったんだろう。何から何まではまるで錯覚のようだったんだ」と。

では、肉体とは何ぞや。

まずエゴについて話を始めたいと思います。エゴというものは防御の働きを行うものだ。すべての物を経験するのには、エゴは目・耳・鼻・舌・皮膚という五官だけを使っている。

五官を通しての知覚では、エゴはほかのすべての物から切り離され、しかも本質的に異なっているように見える。これで自分が仲間はずれになったように感じてしまう。

これで自分が未知の領域 ―― 攻撃的になりかねない領域 ―― にいると感じてしまう。これでぴりぴりっと緊張し、身が引き締まってしまう。これで光の周波数が低くなってしまう。

この「周波数」というのは、あなたの科学者たちの理解している意味で言っていないので勘違いしないようにね。

本題に戻りますが、これで体がぎゅーっと圧縮されるので放射されなくなってしまう。

要するに体が暗くなり切った状態、つまり肉体となるわけです。

これをもたらす唯一の原因は緊張ですね。

さて、防備を下ろすのには、どうすればいいだろう。死ぬ?いや、それは解決にならないよ。

解決は、自分の内側に沈み、自分の本来の完全性を体験することです。それについて思い巡らすのではなく、生で経験することです。こうしなければ、防備を下ろすために勇を鼓すことはあり得ないわけです。

自分の完全性を体験すれば、緊張が和らぎ始め、体が変化を通過する。この変化の一つは、健康が回復するということです。完璧な健康状態は初めからあった実相の状態なので、ふさがらなくなり、現れてくるわけです。




もう一つは、色が新しく見えてくるということだ。色というものには実相的な意味がある。実相的な意味というものには、広いスペクトルがある。テクスチャーもある。愛のテクスチャーだ。色というものは、実相的な意味を現す媒体の一つです。

ライトボディの経験は、肉体の経験と比べては感じが違う。ライトボディの経験は余すところなく、はかりしれない不可思議という神的な感じになる。ごく当たり前ながらメチャメチャ神的。

これに比べては、肉体の経験はあたかも無意味な空想のようだという感じになる。と言っても全くの空想ではない。この世での人生は全く役に立たないものではない。また、無意味なものでもない。

だから「錯覚」とか「妄想」とかいう言葉の使い方を慎むべきです。

実際には、経験できるものは、実相世界だけなんです。これをゆがみなしで鮮明に経験するか、あるいはある程度のゆがみで経験するかのどちらか、というわけです。

この世は、ゆがみで経験されてはいるが、超越しなければならない空想だというわけではない。あなたは今実相世界にいるからだ。天国にいるわけですね。

この世の実相を発見する場は、自分が実際にいる場所なんです。




だからこの場所をも、自分の経験している事柄をも、さらに重視しなければならない。これは、宝石が土くれの中に秘められているような有り様です。

その宝石を取り出すのにはどうする?土くれをがーっと投げ捨て、何くそとそれを超越しようとするのか。

それじゃどうにもならない。宝石を覆う土を削ぎ落とすしかないじゃないですか。

同じく、この世の実相を発見するのには、それを覆う錯覚を削ぎ落とすわけです。

そういうわけで、それぞれの物を尊重しなければならない。その物のうわべとしてではなく、その内実としてです。ただの錯覚としておとしめられると、体は健全になるわけがない。

健全どころか、具合が悪くなっていく一方です。

そもそも病気が生じるのは体がおとしめられているせいです。体というものは永々無窮(えいえいむきゅう)なものです。永々無窮ですよ。なのにこれがただの一時的な宿にすぎないとおとしめられている。

一時的な宿だとしては、体は居心地のいいものになれれば、居心地の悪いものにもなれる。当てにならない。

これで不安・不満・恐れが生じてくるものです。視覚的にですよ。

あなたはこう言い出す。「ちぇっ、勝手に行動しやがれ、このくそ体。居心地が悪いんじゃねえか。信頼できん。絶えず修理しなきゃ、操らなきゃ、無理やりにおとなしくさせなきゃなんねえんだ」と。

これで、自分の個人性と自分の体との開きが大きくなっていくんです。

体というものは自分の個人性の現れであり、自分の個人性を経験することを可能にするものだ。

愛らしくない者を愛するようにと聖書が示していますが、このように、感謝する理由がうわべで見えなくても、自分の体に感謝すべきです。

感謝の気持ちでは防備が手放されるのです。

防備が和らいできたら、和らげば和らぐほど、ありとあらゆる形態の中に潜んでいた光が浮かび上がるんですね。これに伴って、身体の機能不全という錯覚が自然に薄くなるのです。錯覚というものが崩れ始めるわけです。

考えてみてください。

「錯覚」や「妄想」などの言葉の使い方が正しくなければ、苦悩が増加しかねない。一方、使い方が正しければ、希望と信頼が程よく浮かび上がる。それで自分が自分のいる場所をいっそう重視・感謝することが可能になるのです。

実相世界である天国を発見するのには、自分のいる場所でやるしかないわけですね。ほかの場所ではできるわけがない。

トト、ここはもうカンザスじゃないよね

P・タトル:え・・・僕、ポールですけど、ただ今ラージュさんからイメージが送られました。『オズの魔法使い』という童話からのシーンです。「トト、ここはもうカンザスじゃないよね」と少女ドロシーが愛犬のトトに話しかけているところです。これは自分の実際にいる場所から出て、自分のいない場所に入ったというあり得ないことを仮定したシーンです。

ラージュ:この童話では、少女ドロシーの捜していたものは「虹の彼方のどこか」にあったのではなく、結局自分の実際にいる場所だった。そこでドロシーは「我が家に勝る所はない」ということ、つまり自分の実際にいる場所が最高だということに気づいたわけです。

実相世界である天国も同じく、虹の彼方のどこかにあるのではなく、自分の今実際にいる場所にあるのです。別の言い方をすれば、虹の彼方のどこかという目的地はまさに自分の今いる場所だということです。

ほかの場所では血眼で捜しても天国を見つけることは絶対にない。




ニューヨーク州ベア・マウンテン州立公園
1986年3月集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
英語原文
目次
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K・ヤマダ訳
A Course In Miracles
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「わたしはクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
イエスキリストが明かす、運命をかなぐり捨て、実相世界を生で体験する方術(病気・怪我も消える)