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イエス・キリストが明かす

カルマから解放

Raj Gathering
質問者:カルマについて教えて頂けませんか。

ラージュ(=イエス・キリスト):ずばり言えば、カルマはエゴの調合物だ。現世からだけでなく、前世からも自責の念を呼び起こすものだ。カルマの唯一の役割は、あなたと自分の実相との対立状態を維持することだ。

というのは、目覚めるのには、自分の実相への信頼が不可欠だ。けれど、自責の念に駆られている限り、自分の実相を信頼することは不可能。

では、「カルマ」という単語をどうしても使いたいなら、言わば「その都度払い」という意味で使いなさい。いつか将来に支払う負債を蓄積することは不可能だからだ。因果による負債も例外ではない。あなたの前方のどこかには、やにわに切り裂くまさかりが仕掛けてない。

苦しみの唯一のは無知だ。

しかも現在の無知だけのために苦しむのだ。すなわちあなたは今経験しているところの無知のために、今苦しんでいるのだ。3回前の前世に経験した無知のために苦しんでいるのではない。




煎じ詰めれば実相が見えてきた瞬間に、つまり悟りを開いた瞬間に、無知がぱっとなくなる。しかもその無知に付き添った苦しみもぱっとなくなる。

1ドル札を正しく崩すための知識がなければ、釣り銭が少なく渡されることも、正しくない釣り銭を渡してしまうことも常に起こる。そのように無知は被害をもたらすものだ。だけど、1ドル札を正しく崩すための知識が身に付ければ、釣り銭が少なく渡されることも、正しくない釣り銭を渡してしまうことも起こらなくなる。

今という瞬間に意識的に居ているということは極めて大事。

これは発見の入口、すなわち明晰と悟りと変化の入口だ。そう、あなたがいつも居る意識の瞬間は、発見、つまり純粋な機会で構成されている。

過去が良くても悪くても、過去のことに没頭していれば、今という瞬間には完全に意識的に居るのではない。従って、自分の実相存在の、機会を生み出す原動力には、完全に応じられない。

イエス・キリストの引用


過去を放すことと将来への没頭を放すと、どうなるだろう。それは実際に、あなたが自分の意識的経験の瞬間に入り、その瞬間の刃先に乗ることが可能になるのだ。

で、その瞬間にはある機会が起こり得る。それは自分に対する今の知覚、また自分の世界に対する今の知覚を超越する機会だ。そう、存在の全部、すなわち存在の意識的経験の一から十までは、自分が経験しているところの意識の瞬間だけにある。

だから自分が居ている瞬間の中へと自分にリラックスさせてやることがそんなに大切なのだ。

では、どんなことが起ころうとしているだろうか。請求書が明日の郵便で届いて来ることか。出席する会議が明後日催されることか。ほかにもいろんなことだろう。あなたが出すエネルギーの大部分は、それらについての思い煩いで費やされてしまっているんだ。

ところが、朝食の支度をするときが来たら、その瞬間には、注意を集中し、自分に完全に居させてやるだけでいい。その瞬間での要求に対して適当に反応するなら、困難が生じないというのが実際のところなのだ。

自分の想像能力のため、あなたは、将来について仮想し、仮想した将来を本物の将来であるかのように反応することもできる。

しかしそれは何もかも仮想にすぎない。

仮想でないことは何だろう。それは自分が意識している瞬間で、自分の意識的経験の中で行われている事柄だけだ。

あなたたち一人一人に言う。今週末中、一瞬一瞬、その瞬間に自分に居させてやりなさい。そして月曜日が自ずから展開するようにほっときなさい。そうしたら、月曜日をより有効的に取り扱うテクニックを取得し始めたことになる。続いて火曜日、水曜日、木曜日などについても同じことが言える。

イエス・キリストの引用


来る木曜日に起こることのための準備が今日できていなくても、世界が崩壊しない。

「カルマ」という考えがどんな形になっていても、それを捨ててもいいという意思がなければならない。やましい気持ちをもっともだと思わせる筋道は、どれもこれもエゴの策略だ。その策略の目的は、あなたを安らぎに入らせないようにすることと、安らぎに入る権利がないように見せかけることだ。

「カルマ」は、現象界である三次元の発想で、作用・反作用を生み出すものだ。あなたたちはこの発想に含まれている二元性を手放さなければならない。

実相精神は絶えず動いている。

その運動は意識的な自覚として経験されている。

実相精神はその運動を無数の形として経験している。

その運動は作用そのものだ。

実相精神は、自らの運動に対して、承認はしているが、反作用はしていない。なぜなら、存在の無限の一体性以外には何もないので、存在の運動に対して反作用ができるものはないからだ。

ちなみに聖書では、天地創造らしいことが終わったら、次のように述べられている。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」《創世記1:31》。この聖句の後半を「見よ、それは確かに自分自身だった」と解釈しても良い。

これは自己認識を語る一節だ。反作用のことではなく、結論のことだった。実相精神の意識の運動、つまり無限の知性が自ら出した結論のことだった。

作用・反作用があるとすれば、分裂がある。この分裂は、想像上、つまり仮想現実でしか起こり得ない。なぜなら、存在の一体性には、反作用があり得ないからだ。この分裂はエゴが発展するための基本根拠だ。

先ほど指摘したように、カルマは、本当の意味では、言わば「その都度払い」のことだ。ある時点で行動し、その行動に対する支払い義務が生じることはない。同じく前向きな行動には、後で経験する喜びが含まれていない。

自分が今経験している無知そのものは、苦しみを同時にもたらしている源だ。

ところが調和と喜びをもたらすものは何だろう。それは自分の実相とのつながりから生じる明晰な行動そのものだ。しかもそれには時間経過がない。

イエス・キリストの引用


作用と反作用は時間を必要とする。しかし、あなたたちは時間の中に存在するのではない、たとえそう思い込んでいても。あなたたちは四方八方に無限である意識的な知覚の瞬間の中に存在するのだ。




カリフォルニア州カーメル村
1985年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文
目次

K・ヤマダ訳
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「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエス・キリストが明かす「カルマの束縛から解放」