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イエス、「主の祈り」の従来型を
解説、新流線型を紹介

Raj Gathering
質問者: 僕の質問は「主の祈り」についてです。一つ一つの語句を事を分けた形で、元々の本当の意味を教えていただきたい。


ラージュ(=イエス・キリスト):先ずは、祈りとは何なのか理解しておかなければならない。

祈っている人の立場を先に見てみよう。祈っている人は、神から分離された心象が中心になっている範囲内にいる。そうでなければ、祈りには合理性も意義も全くない。

祈りというのは、この立場で行われ、必ず神との一体性の経験に復帰したいという無意識的な願望なのだ。



「天におられるわたしたちの父よ」


では、これはいい口切りだ。祈っている人は知覚できる範囲の外へ呼びかけているからだ。これは範囲の外にも何かがあるという承認なのだ。この承認はわたしの語ってきた「好奇心」の始まりだ。

人は知覚できる範囲の外にあるものに対する興味がなければ、選択肢があるということに気付かない。しかも、辛酸をなめても歯を食い縛り、運命だとあきらめ、その範囲の中で我慢し続けるだけだ。

「天におられるわたしたちの父よ」の「天」《=「天国」》とは、自分の経験している境地と異なり、より現実的かつ幸せな境地だ。

この最初の句は、ACIM《奇跡の学習コース》にある第1課の「わたしが目にする物どれにも、何の意味もない」《=「わたしが目にする物の本当の意味は、わたしの思い込んでいる意味と違う」》という趣旨に似ている。

というのは、「主の祈り」の開始行は、「自分の経験している事柄がまざまざと見えても、知覚できる範囲の外にも何かがあるということに気付いている」と暗示しているのだ。



「み名が聖とされますように」


これでは、祈っている人は、呼びかけている対象に敬意を表し、その神性を認めている。要するに、「神様、あなたがどういう方なのか分かりませんが、あなたを恐れおののく必要がないと思いまして、敬意を差し上げます」と言っていることだ。



「み国が来ますように」


「あなたの観点を経験したい。それが何なのか分かりませんが、それを経験したいと思います。物事に対しては、自分の今の知覚がもう病み付きになっていないからです。わたしは暗闇を経験しているように見えますが、あなたが光であればこの暗闇に射し込んでも構いません」ということだ。



「みこころが行われますように」


一つ言わせてもらいたい。今までは、主の祈りはこのセンテンスで締めくくられたのではなかった。しかし現在では、「我が(こころ)にあらずして御意(みこころ)の成らんことを願ふ」という意味の「みこころが行われますように」で締めくくることにする。

チャネリングされた作品だと一般に知られていない『科学と健康』《チャネラー:メリー・ベーカー・エディ》というチャネリング本がある。この本には次に解釈がある。

「天でと同様に、地でも、神すなわち良さが最上だということをわたしたちが知ることができますように」と。

では、「みこころが行われますように」ということは何だろう。

個人的な日程を何もかも放棄することだ。

意地っ張りを放棄することだ。

傲慢を放棄することだ。

自分の最良の判断力への依存を放棄することだ。

個人的な自我によってゆがめられていない現実を意識的に経験することを呼び寄せる最高の招待だ。

また神性な自覚で満たしてくれるように頼んでいることだ。この「神性の自覚」というのは、神の主権によって与えられ、神が存在しているという自覚、また実相精神があなたの本当の精神を構成しているという自覚のことだ。





「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが行われますように」


これだけが実行されれば、祈りの残り部分は月夜にちょうちん。

「主の祈り」を初めて紹介していた時代には、これだけで祈りを終わらせるようになっていた人が一人もいなかった。またこれだけが究極の祈りだと理解できた人も一人もいなかった。

わたしは今日あなたたちと共にいると同じように、完全に適切なやり方で当時の人々と共にいた。

この部分は、祈る人の願っている内容に応じている。願いのゆえんの本質にも応じている。しかも、快く受け入れる心構えの程度がいくら限れたとしても、その程度にも応じている。

ところが人々が神の本性を知らなかった。

そのため、絶対的なやり方でなく、人々の状況に当てはまるやり方を採用し、祈りを延長する必要があった。神のことは、愛情が憎しみにがらりと変わりかねない、災害、惨事、飢饉、貧困など天罰を下しかねない、満面朱をそそぐ神だと信じ込まれていたからだ。

ゆえに、人々には、神の本性に対するイメージをより正確に言い表すために、新しい言葉が必要だったのだ。



「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」


「お与えください」という言葉は当時の人々の耳目を驚かせた。

「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください(ooooooo)」ということだった。言い換えれば、「わたしたちの生活必需品をプレゼント(ooooo)としてお贈りください」となる。「日ごとの糧を稼げる機会をお与えください」とは言っていない。

「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」とずばり。始めのころ、これは神に対しての突拍子もないイメージを示し、人々の意識を一新した。

神のことを理解するためだけではなく、生まれながら持つ権利すなわち「生得権」を快く取り戻す心構えを表すこともあった。生得権というと、人々は神性な存在だという理由だけで、日ごとの糧を受けるに値するということなのだ。



「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」


ああ、この句では良心がもう少し紹介された。この良心とは、祈っている人が兄弟《=他の人》を快く許すにつれて父に許されるはずだということだ。言い換えれば、愛は愛に反映されるということだ。

人は同胞を許さないでは、父に許されることが期待できないということだ。

人を許すことと父に許されることとは異なることではないということだ。同胞をのけ者にしながら、自分だけが父と仲良くなって報われることは現実的ではないということを明確にしたのだ。



「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」


悪の中へと導かないで、悪からお救いくださいということだ。

神に対するイメージは、烈火のごとく憤慨する、憎しみに満ちた、意地悪だったので、このセンテンスはそのイメージを正す役目だった。これで人々はこの分裂された意志のイメージを容易に手放すことができた。

神の意志は分裂されていない。神は愛と優しさに満ちているので、当然、人を危害に合わせる傾向があるわけない。

繰り返すけど、神に対するイメージは、当時では、概して言えば、現在のと違って、プラスよりになっていなかった。なので、このセンテンスは、神に対する新しいイメージを与え、当時の人々の心をしみじみと打っていた。

「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」という3項目は、どれも世俗の立場から祈られている。祈っている人は、この世俗の立場から解放されるように願っている。

「悪からお救いください」は、「誘惑からお救いください」と言い換えられる。この「誘惑」とは、催眠暗示、すなわちエゴがささやく示唆のことだ。



「国…は…あなたのものです」


天国は神のものであり、自分のものではない。従って、自分の予定表は無意味であり、自分の興味の対象ではないということだ。



「…と力…」


「…力…は…あなたのものです」は強力な言葉だ。力は神のものである。自分には力が全くないということだ。

「自分だけでは何もできない」《ACIMの教師用マニュアル29章》という言葉を聞いたことがあるはずだ。「(われ)を見し者は父を見しなり」《ヨハネ伝14:9》という言葉もある。この「(われ)」というのはわたしだけではない。あなたたちもお互いに見合ったなら、父を見たことになるという意味だ。

「力はあなたのものです」という言葉は、大きな変動が起こるようにした。

というのは、個人的な力という概念に疑問を投げかけたのだ。個人的な力というのは、先日言ったように、卵1パックなどを買いに店へがばと飛んで行く能力のことだ。要するに、以前にもやったことがあるので、適切性を確認する必要がなく、お茶の子さいさいと見なすようなことを行う能力のことだ。



「国と力と栄光は、…あなたのものです」


数分間だけでなく、「永遠に」だ。この最後のセンテンスは、この2日間わたしが言い続けていたように、万事を父の元に復帰させる役目だ。

生半可だけで受け入れられるとしても、または半信半疑だけで対応されるとしても、この祈りでは好奇心が自然に活動するようになるものだ。この好奇心では、実相現実が貫通するようになるほど、エゴの各構造が弱まるものだ。

だが現在は、「みこころが行われますように」という箇所で祈りを締めくくるよう、あなたたち皆に勧める。この締めくくりは卒業するためには、すなわち目覚めるためには、不可欠なのだ。

「みこころが行われますように」という箇所はACIM《奇跡の学習コース》にある最後のレッスンに相当する。

最後のレッスンでは次の趣旨が伝わる。「わたしは自分だけで何も決めない」、「わたしは永遠にあなたの声に耳を傾ける」、「わたしは自分の理解力を頼みとしない」、「わたしは実相を知りたくて、聞き耳を立てる」とだ。




「みこころが行われますように」という蒸留された形では、エゴからの反応がより凄まじく引き起こされるものだ。「我が(こころ)にあらずして御意(みこころ)の成らんことを願ふ」ということを意識的に思い起こしていることは、エゴの嫌がることなのだ。

しかし、この蒸留された形では、変形と目覚めがより早く、よりしとやかに促進されるものだ。この「変形と目覚め」とは、あなたたち一人一人が自分の実相精神に戻るということだ。

言い換えれば、天国が目の前に見えてくるように、あなたたち一人一人がつむっていた目をぱちぱちさせているところだ。

あなたたちを自分たちに対する全く狂っている心象の中に監禁しているのは、エゴの構造だ。だが、この祈りにある各言葉に含まれている意味は、エゴの各構造をほどき、あなたの解放をもたらすものだ。

だから、この祈りを空念仏で唱えないで、意味が含まれていることを思い切って信じるがいい。

この質問を聞いてくれてありがとう。




翻訳者脚注) 「主の祈り」のカトリック標準バージョンを流用したのは、便宜のためだけでした。他バージョンに置き換えても問題ないでしょう。



ハワイ州プリンスヴィル郡
1991年集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文
目次
K・ヤマダ訳
ACIMロゴ
acim.jp
「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
《参考資料》
従来の「主の祈り」
イエス・キリストは「主の祈り」を解説し、新流線型を紹介