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イエスキリスト著作のACIM(奇跡講座/奇跡のコース)解説など

イエスキリスト、エゴの化けの皮をはがす



序文 エゴはわたしたちの実相を隠すことで、一切の苦悩をもたらすものです。その意味では、「エゴは悪質だ」とラージュさんはよく発言。「エゴは『虚偽者(いつわりもの)にして虚偽(いつわり)の父なればなり』(ヨハネ伝8:44)」とまで言明。(「虚偽の父」=悪魔サタン)

しかし今回のお話では、ラージュさんは別の角度からエゴの化けの皮をばりっとはがします。エゴを乗り越える方法も公開。 ―K・ヤマダ

Raj Gathering
ラージュ(=イエス・キリスト): ...《答えの途中》...この話は以前にも持ち出したんだが、耳寄りなので今もう一度持ち出す。いいか。本来はエゴは、虚偽のものでもなく、悪魔でもなく、邪悪でもない。

この話を以前に持ち出したときには、一枚のノート用紙に1円玉ぐらいの小さな円が描いてあった。いいか。あのノート用紙を思い浮かべよう。

あの用紙自体はあなたの広大無辺の体を表し、小さな円はエゴを表している。

円の内側はあなたの広大無辺の全体ではない。ただの一部だけだ。なのに、エゴは、「この小さな円の内側が僕の全体だ」と断言している。この断言はあなたの頭の中で、あなたのせりふとして、あなた自身が言っているように行われている。

エゴがやっているのはそれだけだ。

だからエゴを悪魔と見なしてはならない。エゴをこげにしてはならない。エゴに対して腹を立ててはならない。エゴを悪の勢力や物の怪として扱ってはならない。

実際は、エゴとはあの円を描いてある線のことだ。境目なのだ。

無限というものの中に画してあるちっぽけな囲いとなる境目だ。換言すれば、無限の存在であるあなたの中に画してあるちっぽけな囲いだ。ちっぽけなくせに、広大無辺のあなたを囲んでいるように思わせている。




エゴを目の敵として扱うべきではない。エゴはあなたの広大無辺の体の中でのちっぽけな部分を取り囲んでいる人為的な囲いだ。だからエゴをそれだけのものとして扱うべきだ。

そうしたら囲いの外側にある事柄を快く受け入れればいい。それでエゴを乗り越えること、またはエゴを取り除くことが起こる。

しかしあなたは囲いの内側に慣れきってきた。しかも内側で何とかやってのけるようになってきた。こうなったからには、囲いの外側を受け入れようと考えるだけで、心がざわめくものだ。外側は海の物とも山の物ともつかないように思われるからだ。

そういうわけで、自分を守るために、囲いの壁をさらに強化するはめに陥っている。

では、解決策は?

考えるという活動を中断し、聞き耳を立てるようにすることだ。言い換えれば、心の中で快く、すっかり静かになるか、あるいは比較的静かになることだ。そうするのには、20分でもいいんだけど、時間を割き、瞑想するか、あるいは思考を鎮めてできるだけ静かになることだ。

イエス・キリストの引用


そうやっている間、囲いの壁を強化しようとすることに心を傾けていないのだ。

それで、囲いの壁にひびが入り、外側がすっと吹き込んでもおかしくない。けどわたしが先ほど言ったことを心得ていなければ、外側を受け入れることは恐ろしい。

先ほど言ったのは、神がまさに存在するということだ。また神のことは愛だということだ。また神はあなたを愛しているということだ。かつまたあなたの平凡な日々の何から何まで、あなたは怪力を持つ仲間たちに付き添われているということだ。

その上、あなたの日々のどの部分も、実際には平凡ではないということだ。

このちっぽけな囲いの内側から見れば、神が容易に目に見えてこない。物事の良い点さえも容易に目に見えてこない。そういうわけで何もかもが味も素っ気もないように見えてしまう。

さて、先ほど言ったように、エコは味方ではない。

と言っても敵でもない。エゴがあなたをこれっぽちの範囲に限定しているということは、広大無辺のあなたにとって、まったく間尺に合わないことだ。でもエゴそのものは味方でもなく敵でもない。

よろしいか?

さて、あのノート用紙の例では、あなたは小さい円に囲まれている。自分のことを円の内側だけだと思い込んでいる。しかし円はどこに描いてあるかというと、何と広大無辺というものの中にだ。

円の外側と同じく、内側もすっかり神性だ。




ここでその比喩をさらに鮮やかにしよう。円の代わりにシャボン玉を思い浮かべよう。いいか。じゃ、シャボン玉の内部には何があるだろう。

外部のと全く同じ空気じゃないか。

シャボン玉というのは、内部と外部との境目をぎりぎり定めるほどのうっすらとした膜だけだ。だろう?内部も外部も同じ空気だよ。

だから自分自身に対する知覚が未完全でも、知覚する事柄を尊重しなければならない。もっともシャボン玉の内部だけがあなたの全体だと信じてはいけない。またシャボン膜が実在すると信じてはいけない。

エゴについてあれやこれやと話せるにしても、エゴそのものは存在しない。

エゴは言わば風や火など、自然界にあるニュートラルな力だ。あなたを味方としない原動力だ。エゴはあなたが自分の全体性から離れた状態を保っている。また、万物との一体性を経験することを妨げている。

と言っても、エゴは強くはない。攻撃的でもない。あなたに対して何もできない。と言うのは、エゴはあなたが自分の全体性から離れているということを暗示しているだけだ。

エゴはその暗示そのものにすぎないのだ。

さて、このシャボン玉というイメージをしっかり心に留めておいてほしい。エゴは内部の空気と外部の空気が分けてあるという暗示にすぎない。

いいか、エゴはそれだけのものなのだ。

その境目が実在すると信じてはならない。またその境目に憂き身をやつしてはならない。そうしてしまえば、自分のことが小さくなったように感じてしまう。

そうしたらびびってしまう。そうしたら防衛的になる。そうしたらシャボン玉を成している石鹸水に石鹸をさらに足していくはめに陥ってしまう。

骨折り損のくたびれ儲けだよ。

そればかりか。それで内部と外部とのうっすらとした境目が継続するようにしてしまっている。わかるかい?

でもエゴはあなたの敵でもない。エゴはただのシャボン膜にすぎない。また、ノート用紙の例で言えば、円の内側と外側の境目として描かれた線にすぎない。

イエス・キリストの引用


円の内側ではあなたのやることには、何であれ、動力がない。なぜなら円の内側だけがあなたの広大無辺の全体ではないからだ。

自分の全体がちっぽけな囲いの中身だけだということは妄想だ。

その妄想には、行動を起こすための権限が生じるわけがない。その妄想ではあなたは創造的になり得ない。

そういうわけで、神がすべてだという確信にたどり着かなければならない。

そうするのには、理性を利用するとしても、快く静かになり、快く抵抗をやめることが必要だ。その確信にたどり着いたら、思考やコントロールを利用しないで、落ち着くことができるようになり、抵抗をやめることができるようになる。

それでシャボン膜にポツポツ穴があき、外の空気が浸透してくるようになる。ノート用紙の例で言えば、線が薄れてくるということになる。そうなったら、あなたを愛する愛がすーっと吸い込まれるのが感じられる。




そうしたらあなたは外側からの新鮮な空気を吸うことができる。新鮮な空気を吸ってみると、シャボン玉の内部がむんむんしていたということに気付く。

でも内部の空気も本物の空気だということが明らかになる。

その経験では、シャボン玉の内部も、神があなたとして存在されているところのままになっていたということを発見する。しかもシャボン玉の中に閉じ込められた自分も、全く神性で、全く潔白で、全く完璧だということが火を見るよりも明らかになる。

その再結合であなたは救われる。心の中でも、経験の中でも、新鮮な空気で胸がすきっと晴れる。

抵抗をやめれば、シャボン玉はパチンと割れるものだ。ノート用紙の例で言えば、線は跡形もなく消え失せるものだ。

そういうわけで、目覚めていないままでも、自分自身に対して知覚する事柄がいくらひどくても、その事柄は自分の神性な存在の臨在そのものだ。もっともその事柄はうっすらとした仕切りによって非合法的にすっぽりと包み込まれている。

でもその仕切りはシャボン玉のようなものだ。10センチほど分厚い壁でできたガラス玉じゃないぞ。一たまりもなくパチンと割れてもおかしくない。

ただのシャボン玉だ。

ほのかに漂うかすかなものだ。シャボン玉はちょっとしたことでパチンと割れてしまうものだ。というのは、あなたをすっぽりと包み込むエゴという仕切りはちょっとしたことでふっと消滅するものだ。

ちょっとしたことでな。




じゃ、「ちょっとしたこと」とは具体的にどういうことだろうか。

祈るということだ。要するにシャボン玉の外側へ手を伸ばすということだ。「神様...」と呼び掛けるために、自分の抱える問題に対する執着を快くちょっと棚上げにするということだ。

「神様...」と呼び掛けるだけで、後は何も言わなくてもいいということもある。外側へと手を伸ばすだけでシャボン膜を突き抜けることもあるからだ。

手を伸ばすというのは、「神様...」と呼び掛け、エゴ範囲の外側へと注意を向けることだ。そうすれば、神はあなたの心にひびき、その心を新たにすることができる。そうしたら、あなたは実相の立場から見るようになる。

そうなったら、パッと癒される......




ワシントン州キングストン郡
2001.4.28集会の抜粋
チャネラー:P・タトル
英日翻訳者:K・ヤマダ
翻訳文改訂:2011.04.16
英語原文
目次
K・ヤマダ訳
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acim.jp
「私はクリスチャンではない」等イエス・キリストの引用
A Course In Miracles
「イエス・キリストは語る」
イエスキリストがエゴの化けの皮をはがし、エゴを乗り越える方法を教える