このサイトの内容は、A Course in Miracles (以下「奇跡講座」) の正統的な解釈ではありません。
なのでサイトタイトルは、「A」ではなく「Another」としました。
個人的に、奇跡講座に書かれていることは、こういうことなのではないか、と感じたことを記しています。
ですので、正統的・伝統的な解釈を知りたい方は、一般的なサイトをあたっていただければと思います。
コンテンツは以下のように分類しています。
「予備知識」では、「こうしたことを踏まえると奇跡講座が読みやすくなるのではないか」ということに関して、いくつか列挙しています。
「テキスト」「ワークブック」「マニュアル」「精神療法」「祈りの歌」では、それぞれに関して概観したり、詳細な「感想文」が書かれています。
「雑文」では、奇跡講座に関する雑多なことを書いています。
「他ブログ」では、奇跡講座とは直接関係のないことに関して書いています。
「妄想論」では、意識覚醒・意識進化に関して、主として妄想という観点から論じています。
奇跡講座の「最終目標」は、奇跡講座自体が不要になることであり、それは例えば、ワークブックではこう書かれています。
この世界を忘れなさい。このコースを忘れなさい。そして、すっかり空っぽになった両手を携え、神に到達しなさい。(W-pI.189.7:5)
このコースは、終着点ではなく出発点である。(W-ep.1:1)
こうしたことは、発想としては例えば、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』にもみられます。
人は私の言わんとするところが分かると、これらの命題を昇りきり、その上に立ち、それを超えるが、そのとき、最後の最後になって、これらの命題には特に意味はなかったと気が付く(いわゆる「梯子は、昇り終えたら捨てるもの」である)。このようにして私の諸命題は解明される。
どうかこれらの諸命題を乗り越えてほしい。そのとき、世界はそのままに見えるだろう。(論理哲学論考、6.54)
こうしたことは例えば、「到彼岸」ということでいえば、「向こう岸」に到達したら、船は不要になる、みたいなたとえと同様であり、道具は目的を果たしたら不要になる、ということです。
(ただし、表現としては、奇跡講座では「実相世界への橋」という表現もある、つまり、「船」ではなく「橋」という表現も用いています)
ま、こうしたことはすべて「個人の感想」なので、間違っても信じないようにしてください(笑)。
ただ、感じることを一つだけ挙げると、奇跡講座の言語感覚は、基本的に実相世界からの捉え方になっているようだ、ということです。
ですから、例えば、「実相世界」という元の英語は「The real world」ですが、これはそのまま「現実世界」と訳した方が的確ではないかと感じています。
これはおそらくですが、ラカンの言う「現実界(le réel)」とも関連があります。
これを「現実の世界」「実際の世界」「本当の世界」というような訳にすれば、いざ実相世界に到達した時に、「確かにこちらの方が「現実の世界」であり、これに比べると、自分が今まで世界だと思っていたものは、実際に「ただの幻想」だった」と感じる実感との照合が容易になります。
しかし、「実相世界」という訳では、「実相世界の方が現実世界であり、だからこそ、現在私たちが現実世界だと思っているものは幻想世界なのである」ということが不明瞭になります。
これは致し方ないため、このこと自体をどうこう言う意図はなく、ただ「こういうことのようだ」ということを申し上げるものです。
そして、テキスト第17章以降は、実のところ、実相世界に到達していることが前提となっているようだ、ということもまた、体験してみてわかりました。
そして、こうしたことはすべて、自分の中だけで起こります。
ただ、こういう捉え方は、あくまでも、本人の様子を他人の視点から見たときのものであり、本人自身にとっては、これは実際に世界の質が変容する体験として経験されます。
こうしたことに関しては「予備知識」の中で詳述する予定です。
2024. 6. 5. 記す
Last updated at 2024. 7. 31.