いきなり過激なタイトルですが、これは「体験談」です。
というのは、ワプニック博士の解説を学んでいると、いろいろとわかった気になることができるので、もっと学ぼうという気にもなりますが、結局よくわからない、しかしもっといろいろと読み込むと少しは分かる、みたいなことを繰り返しているうちに、ふと気が付いたことがあります。
奇跡講座の簡単な一言ですらも、ワプニック博士の解説と照らし合わせなければ理解できなくなっている、という自分に気が付いた時、これはどうしようもないという感じになりました。
ですから、これはもう、博士の解説をいったん離れるしかない、というところに追い詰められたため、自分なりにどう感じるかというところに立ち戻るしかありませんでした。
そうしたら、博士の解説とは全く異なる読みが見えてきました。
そのことに関して、このサイトでは書いていこうと思っています。
で、原文だけではなく、ヘレンさんの元の筆記ノートとFIP版とを照らし合わせているうちに、奇妙なことに気が付きました。
それは、編集は確か、「個人的な言及を削除し、わずかな変更があったほかは、実質的に何も変わっていない」(cf. 『奇跡講座』まえがき、p.02 下段)とされているにもかかわらず、かなり後の方まで全体的に細かく変更されている、ということです。
もちろん、ほとんどは前置詞や、わずかな語句が書き換えられているにとどまっていますが、ただ、そのわずかな変更により、書かれている内容がまるで異なったものになっている、としか思えない箇所がいくつも出てきました。
こうしたことは、「正しい前置詞」とかを追求するという意図ではなく、ワプニック博士をはじめとした関係者の方々にとって、そうした「わずかな変更」が必要だと感じさせた、無意識にある「何か」が気になった、ということです。
これは個人的なものでもあり普遍的なものでもあるので、そもそも、そうした方々に対する個人的な当てつけでは全くありません。
当時の時代意識の到達度自体による「知覚の限界」「認識の限界」というようなことに関してです。
私は、ワプニック博士の解説を参照しなければ、奇跡講座がまるで理解できなくなっている、ということに気が付いた時、これはよくないと感じたので、博士の解説を離れましたが、だからといって、他の学習者の方にも同じことをお勧めする意図はありません。
逆に、私の読解に対して、もし、きっちりとした反論があれば、それを求めています。
ただし、「反論のための反論」は、形の上では議論しているようでありながら、実際には相手を言い負かすことが目的なため、そうした議論は、すればするほど自他ともに消耗していくだけで、言葉の真の意味で「時間の無駄遣い」でしかありませんから、そうしたものは、申し訳ありませんがお断りさせてください。