「彼岸語」と「此岸語」

奇跡講座でぶつかる壁の最大のものは、「何が書かれているのか、さっぱりわからない」というものでしょう。

ま、当たり前っちゃあ当たり前ですが。

ところが実は、もう一つあるようなんですね。

それのことを差し当たって、「彼岸語」と「此岸語」としてみました。

以下、そのことに関して説明します。

まず、彼岸語も此岸語も、用いる言葉は基本的に同じです。

つまり、例えば日本語なら日本語、英語なら英語で、同じ日本語でも彼岸語と此岸語があり、同じ英語でも彼岸語と此岸語とがある、というような感じです。

ところが、彼岸語と此岸語とでは、いろいろとニュアンスなどが反対になっているようです。

わかりやすいものをいくつかピックアップしてみます。

「安らかに休み給え」とは死者のための祝福ではなく、生きている者のための祝福である。なぜなら、休息は眠ることからではなく、目覚めることからやってくるからである。……あなたはただ目覚めているがゆえに、安らかに休むことができる。(T-8.IX.3:5; 4:9)

ここの、「安らかに休み給え」は、元の英語では「rest in peace」です。

はい、死者を弔う言葉ですね。

ところが、奇跡講座ではこれは、死せる者ではなく生ける者のための言葉である、とされています。

これを、「彼岸語」と「此岸語」ということで言ってみると、つまり、「rest in peace (安らかに休み給え)」は、此岸語としては死者のための弔いの意味になるが、彼岸語としては生ける者を祝福する言葉となる、ということになります。

また、こういうのもあります。

あなたが純粋な赦しについて感じる主な難しさは、赦すべき対象が幻想ではなく真実であると、あなたが今でも信じていることから生じる。あなたは赦しを、存在するものを見過ごそうとする無駄な試みのように考えている。すなわち、真実を無視し、幻想を現実に仕立て上げることで自分を欺くという不当な努力を強いるものだと思っている。(W-pI.134.3:1-2)

言語的理解としては、これは、「罪をリアルなものとして、しかる後にそれを赦そうとする」といったことを指しています。

例えば、ある人の「攻撃性」を「赦す」というとき、「その人は実際に攻撃的な人である」、もしくは「その人の攻撃性はリアルである」という前提から始めます。

ですから、その人の「攻撃性」を「赦す」というのは、「存在するものを見過ごそうとする」ことです。

つまり、そこで無視されている真実とは、「その人は依然として神の子である」ということであり、現実として仕立て上げられた幻想とは、「その人は攻撃的な人である」ということです。

ですが、普通はどう見たってその人は攻撃的な人だとしか見えません。

どう見たってそれは「現実」であり、それが「幻想」だ、なんて全く思えません。

だからこそ赦す必要があるわけですよ。

でも、赦しとは、その人は神の子である、ということがわかることです。

しかし、どう見たってその人は攻撃的です。

そこでどうしても人は、例えば「愛ある攻撃」「愛するがゆえの叱責」といったような、イミフで複雑な解釈を施そうとする方に流れます。

例えば「愛のムチ」とかもそうですね。

そうすると例えばですが、「こんなにもこの人は攻撃的なんだけど、でも、それでもこの人はやっぱり神の子なのだ」みたいなことになります。

で、赦しとはそういうことではないのではないか、というのが、ここで言いたいことです。

まず、まことに残念なことですが、この、「こんなにもこの人は攻撃的なんだけど、でも、それでもこの人はやっぱり神の子なのだ」とするのは、赦しではありません。

実際にはこれは、自分の知覚を糊塗する、つまり以前にもまして「塗り固める」ことをしています。

しかも、自分にとって糊塗しています。

言い換えると、以前にもましてますます見えなくなっていきます。

そうした人の様子を他人の側から見ると、例えばですが、その人はいかにも明るく振る舞っているんですが、しかしよく見ると、その人の目はどこも見ていないような感じがします。

それは、「完璧な糊塗」によって、その人は現実が全く見えなくなっているため、他の人から見て、その人は「どこも見ていない」ように見えるためです。

でも、その人自身にとっては、「現実」はとても「明るい」「よい」「楽しい」ものとして見えています。

例えばこうしたことが生じるようです。

「その人は実際に攻撃的な人である」という前提から始まる赦しによって行きつくところは、具体的には例えばこんな感じ、つまり、以前よりももっとその人が見えなくなるが、当人は、その人が「見えている」という思い込みにはまっていく状態、のようです。

これは精神医学的には「否認」と呼ばれるものなのかもしれません。

ただし、ここでは、こうしたことを非難攻撃したり咎めたりしたいのではありません。

こうしたことが起きてしまうのは、この記事の言い方でいうと、奇跡講座に書かれていることを「彼岸語」ではなく「此岸語」として受け取ることによるのではないか、ということが、ここで言いたいことです。

通常は、例えば「こんなにもこの人は攻撃的なんだけど、でも、それでもこの人はやっぱり神の子なのだ」とするというのは、とても「崇高な」「神聖な」「真摯な」「気高い」ことです。

つまり、これはどう見ても防衛ではない、としか感じられません。

それどころか、とてもまじめで真剣に取り組んでいるようですね。

こうした状況に関して、奇跡講座では例えば、以下のように描写しています。

この側面は、決して自分から先には攻撃しない。しかし、毎日、数知れない細々とした事柄が、その無垢性に小さな攻撃をしかけ、挑発して苛立たせ、ついにはあからさまな罵詈雑言を吐くまでに至らしめる。……この自己の概念が、実に誇り高く装っている無垢なる顔は、自己防衛においてであれば、攻撃を耐え忍ぶことができる。この世界が無防備な無垢性を苛酷に扱うというのは、周知の事実ではないか。(T-31.V.3:3-4; 4:1。公認訳を一部書き換え)

ちなみに、「この世界が無防備な無垢性を…」の箇所は、表現に「ひねり」が加わっていて、これは、無垢なる顔の「心のつぶやき」のようなものとなっている、つまりイエスが言いたい言い方ではなく、無垢なる顔が言いたいであろうことを、イエスが「代弁」した格好になっています。

そのため、これはソクラテス的アイロニー(皮肉)となっています。

そして、この無垢なる顔の様子は、此岸語としての「赦し」を、「精一杯実践」している様子となっているようです。

そうすると、この無垢なる顔を装っている自己概念的には、赦しとは、先のレッスンに書かれているように、まさに「存在するものを見過ごそうとする無駄な試み」なんですが、それでも、その「赦しという名の「無駄な試み」」を全力で成し遂げようとして、「真実を無視し、幻想を現実に仕立て上げることで自分を欺くという不当な努力」を、その努力がうまくいかなければいかないほど、今までにもましてなお一層、努力と精進に励むようです。

さて、以上は、同じ言葉が異なる意味となるケースに関してでしたが、次は、同じ意味が異なる言葉となるケースに関してです。

相手が自分の意に反する振る舞いを見せるけど、でもそのことが不満な時、人は往々にして、「私はあなたを信頼している」と思い、また口にします。

この時の「信頼する」とは、実際には、相手が自分の思い通りの様子を見せることだけを望んでいます。

つまり、ここでいう「信頼する」は、どちらかというと「期待する」という感じのようです。

これはつまり、本当は信頼していないからですね。

では、言葉の正しい意味での「信頼する」とは、例えばどのようなものなのかを、少し想像してみます。

以前、とある心理学者が著作の中で、「信用」と「信頼」は違う、と言っていました。

別に単語上の区別自体が問題なのではなく、その方が区別したかったのは、「条件付き」と「無条件」とは異なる、ということであり、そして「条件付き」の方を「信用する」、「無条件」の方を「信頼する」として識別しようとしていました。

実際には、両者は割と入り混じって用いられているため、ざっくばらんな日常会話でここまで言葉にうるさくなると、他の人から煙たがられることは確実です(笑)が、それはともかく、例えば上の、「相手が自分の思い通りであってほしい」というのは条件付きであり、「信用する」という方だということになります。

では、無条件の信頼とはどのようなものか。

相手の様子によって信じたり信じなかったりするもの条件付きです。

では、無条件とは、相手の様子とは無関係である必要があります。

ここで、無条件というと、「相手の様子がどうであっても成立する」と言いたくなりますが、これは実は、「相手の様子とは無関係に成立する」とは、一見すると似ているようですが、厳密に言うと次元が異なっています。

これはトポロジー的には「球面から1点が欠けている」状態と「欠落のない球面」との違いに相当しています。

両者は「位相が異なる」という言い方をしますが、これは一般的に言う「次元が違う」というものになります。

心情的に表現すると、前者はまだ「例外」へのこだわりがありますが、後者はそれもなくなっています。

これつまり、「手放す」ということなんですね。

はい、ですから、彼岸語としての「信頼する」は、此岸語でいうと「手放す」に相当している、という可能性があるわけなんですね。

自分の心の中で相手を手放すことは、実際に相手を自由にすることであり、それが相手を信頼することとなっています。

この場合の「信頼」とは、相手のことは相手の自由に任せている状態ですから、普通の意識状態の場合、これはものすごく怖くなったり不安になったりします。

これは、通常の場合、人は心の中の他者イメージにしがみつくことによって心の安定を得ているため、それを「手放す」ことは通常、とてつもない恐れを伴うからです。

だからこそ、こうしたことは少しずつ取り組んでいく必要があります。

以上のようなことを踏まえると、先の「私はあなたを信頼している」というときの「信頼する」というのは、此岸語としての「信頼する」のことですが、これは彼岸語としては、「固執する」「執着する」とほぼ同義になる、のかもしれません。

こうしたことは必ずしもきっちりとした対応を見せるとは限りませんが、「彼岸語」と「此岸語」という捉え方から、言語による理解の実情に関して少しでもご理解いただけたら、まことに幸いです。

なお、お気づきの方もおられるかもしれませんが、「彼岸語」とはつまり、自我の領域の外からの表現のことです。

「譲歩」について

どうやら、奇跡講座の難解さは、いくつかの捉え方についてあまり知られていないからのようだ、ということを、いつごろからか思うようになった。

その一つが「譲歩」というものである。

ただしこれ、日本語と英語ではまるで異なっている。

日本語と英語の「譲歩」の違いとは!? (kenyu-life.com)

英語の文法でよく聞く「譲歩」とは? 5つの譲歩構文まとめ (eigo-box.jp)

上の2つのサイトにあるように、日本語、ないしは日本人の思う「譲歩」とは、自分の立場までも相手に譲ることを指しているが、英語の場合の「譲歩」とは、表現の上では相手の立場を認めているが、主張しているのは自分の立場である。

そして、この「譲歩」という観点から、例えば以下の段落を読んでみよう。

したがって、彼らは罪が失われることは呪われることだと考える。そして、あたかも聖霊が、天から遣わされた地獄の使者であり、背信と狡猾さによって解放者と友人を装いながら神の復讐を行う者であるかのように、彼らは聖霊から逃れようとする。彼らにとって、聖霊は天使の衣をまとって欺こうとする悪魔に他ならない。そして、聖霊が彼らのために用意している脱出口は、天の門のように見える地獄への扉以外の何ものでもない。T-25.VIII.7 (公認訳)

「譲歩」という観点から捉えると、つまり、「これらすべて、実は起きていない」という暗黙の前提の基に、「しかし現段階では、あなたは現にこうしたことが起きていると知覚している」ということに関して、上のような表現が成立している、ということになる。

そのため、例えば以下のようになるであろう。

したがって、彼らは罪が失われることは呪われることだと考えるが、実際には罪が失われることは祝福をもたらす
そして、あたかも聖霊が、天から遣わされた地獄の使者であり、背信と狡猾さによって解放者と友人を装いながら神の復讐を行う者であるかのように、彼らは聖霊から逃れようとするが、彼らとしては地獄の使者から逃れようとしている「つもり」なのだ
彼らにとって、聖霊は天使の衣をまとって欺こうとする悪魔に他ならないが、いくら聖霊が悪魔に他ならないと見えようが、聖霊が聖霊であることには変わりがないため、これは救いをもたらす
そして、聖霊が彼らのために用意している脱出口は、天の門のように見える地獄への扉以外の何ものでもないと彼らには見えているからこそ、彼らとしては地獄に陥らないようにと全力で抵抗し続けている「つもり」なのだが、結果的に彼らは、救済に対して抵抗し続ける格好になっている。(赤字が捕捉箇所)

あまり効果的ではないが、ざっとこのようになっている。

例えばだが、以下のような状況を想像してみよう。

テキストの上の箇所で、黒字で書かれている部分は、本人の眼前に展開している円弧のうち、本人の側に映し出されている様子についての描写である。

そこには、実に「恐ろしい」様子が映し出されているため、本人はすっかり怯え切っている。

では、そのように本人がすっかり怯え切っている様子を、緑色の丸で示した、本人の様子を見ている人から見てみたとき、どうなるだろうか。

本人の様子を見ている人からは、円弧にどのような世界が映し出されているのかは見えていない。

その円弧は、演説で用いられるプロンプトのように、本人の側にだけ何かが映し出されているからである。

そうすると、緑色の丸の人からは、本人があたかも「勝手に怯え」ているかのように見える。

ざっとこのような状況を「下敷き」として想定してみると、多少わかりやすくなるかもしれない。

しかし、例えばだが、「あなたが悪魔だと思っているものは聖霊なのだ」というようなことをダイレクトに言うと、場合によっては本人を攻撃することにもなりかねない。

そこで譲歩して、「現段階のあなたにとっては悪魔と見えている」という前提から表現している、というわけである。

では、先の図をもう一度、別の箇所に適用してみよう。

救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」ということだけである。T-27.VIII.10:1

これもまた、「あなたは自分で自分にこれを行っている」というのは、「円弧の内側」のことを指していると捉えると、起きている状況に関して、多少だがわかりやすくなるだろうか。

こうした状況を、別の角度から説明を試みてみよう。

スピリチュアルで、最近よく、「世界とは携帯版ゲーム機の画面のようなものだ」というようなたとえを見るようになった。

例えば、以下のような状況において、本人にとっての世界とは、画面の中のことを指している、というようなたとえである。

ところで、このたとえでいうと、この本人にとっては、ゲーム機の画面以外の部分はそもそも見えていないことになる。

そして、その様子を他の人から見ると、本人はこのような状況になっている、というわけである。

本人にとっての世界とは、本人が装着しているVRゴーグルの画面に映し出されているものなのだが、それは他の人からは全く見えないものとなっている。

そして実際には、このVRゴーグルの存在自体、他の人からは見えないものとなっている。

本人が「プライベートVRゴーグル」の中しか見えていない様子を相手の立場から見ると、その様子は、本人の肉眼はちゃんと機能している「はず」であるにも関わらず、なぜか、あたかも本人には目の前の現実が何も見えていないかのように、他の人からは見える。

それは、本人が見ているのは「見えないVRゴーグル」の画面であり、目の前の現実ではないからである。

その様子は、言葉の正確な意味で「夢遊病」の状態であり、また、その様子は「白昼夢に入り込んでいる」とも表現できるだろう。

こうしたことが今までわかりにくかったのは、「本人にとっては、「それ」はとても現実味があるが、他の人からは「それ」はそもそも見えない」ということが、今まではよく見えていなかったため、言葉上の表現がどうしても晦渋になってしまっていたことによるのであろう。

ざっとこうしたことを踏まえて奇跡講座を読むと、実はそれほど難しいことは書かれていない、ということが、少しずつ分かってくるであろう。

難しく感じるのは、VRゴーグルという「現状を説明するための象徴」が、今までは登場していなかったことによる、という側面が、実はかなり大きいようだが、逆に言うとただそれだけのことである。

例えばだが、もし、奇跡講座が筆記されていた当時に、すでにVRゴーグルが登場していたとすれば、イエスはそのたとえを用いたかもしれない。

奇跡講座に見られる漸進的記述

これは「論より証拠」だと思うので、実例をもとに説明しますね。

テキスト編、T-19.IV.D.8-17 を例に挙げます。

その前に、まず、このくだりを理解するにあたっては、「贖罪を受け入れ、幻想が実在しないと学ばない限り、誰も恐怖を抱かずに神に対する恐れを正視できない」(T-19.IV.9:1)ということに注意が必要です。

これ、実は意外に重要です、というのは、こうしたことが学ばれるまでは、何もかもを逆に取り違えてしまうからです。

ですから、こうした準備なしに、いきなり、神に対する恐れに直面してしまったら、それは覚醒とは真逆の体験になりかねません。

その夢(「密かな夢」(cf. T-27.VII.11:7)のこと)はあまりにも恐ろしく、あまりにも実在性のあるものに見えるため、もっと優しい夢が彼の目覚めに先立たない限り、彼が恐怖の冷汗や死を恐れる悲鳴なしに実相に目覚めることはできないだろう。それは、彼の心が穏やかになり、愛を込めて目覚めを呼びかける声を恐れずに、歓迎できるようにする優しい夢であり、彼の苦しみが癒され、兄弟が友人となっている夢である。T-27.VII.13:4 (公認訳、以下同じ)

これは、『神の使者』(ゲイリー・レナード著)、p.346 にも引用されている箇所です。

先に書いた「覚醒とは真逆の体験」とは、例えばトラウマ体験とかですが、これに関する注意喚起は、テキスト第1章、T-1.VII.4 でなされています。

そのようなこと(このコースの後半のステップを周到な準備なしで始めること)をすれば、畏怖の念が恐れと混同されて、その経験は至福よりも精神的外傷(トラウマ)をもたらすようなものとなってしまう。T-1.VII.4:8

ま、実際にこんなことをしたら、至福の中ではなく、精神病院の固いベッドの上で拘束具を付けられて目覚めることになるので(一応体験談です・笑)。

というのは、周到な準備がないままに、いきなり直面する実相世界は、文字通り「気が狂う」ほど「恐ろしい」世界だからです。

では、記述の漸進性について、ざっと見てみましょう。

T-19.IV.D.8-17 は、「i. ベールを取り去る」ですが、まず、第8段落は「前置き」のようなものとなっています。

そして 9:4 「しばしここに立ち、震えずにいなさい」という辺りから、兄弟に投影している、神に対する恐れを見てみるところに入ります。

第10段落は第9段落の補足的な説明です。

第11段落では、「神に対する恐れを見る」ということに少し近づいています。

そして、第9,10段落ではまだ、恐怖がベースとなった捉え方でしたが、この辺りでは少し論調が変わっていることに気が付かれるかもしれません。

「完全な赦しを前にして、あなたはいまだに赦すことなく佇んでいる。あなたは兄弟を恐れているからこそ、神を恐れているのである」(11:4-5)あたりから後は、一見すると「裁き」「断罪」「決めつけ」のような文章ですが、そうではなく、これは「それでも大丈夫なんだよ」という、イエスによる心からの勇気付けです。

例えば、「あなたは兄弟を恐れているからこそ、神を恐れているのである」というのは、「そんなにも兄弟を恐れているあなたは、なんといけない・至らぬ・できてない・欠陥だらけの人であることか」といった意味ではありません。

そうではなく、「あなたが神を恐れているのは、兄弟を恐れているからなんだよね。だから、今、恐れずに兄弟を見てみよう。そうすれば、神に対する恐れもまた取り払われるよ」という意味です。

さて、第12段落では、兄弟は「依然として異邦人のように見えている」(12:1)、つまり、相手は自分とは相容れず、そりが合わない、見知らぬ人として見えている、ということです。

この段落は、自分が実は相手をどのような人として見ているか、に関する解明となっています。

そして、兄弟を赦す必要性に関する言及の後、「そして、あなたと兄弟は信を抱いて一緒に目を上げるか、さもなければまったく目を上げないかのどちらかである」(12:8)となっている、つまり、目を上げるか上げないかは、両者がともに決断することだということです。

そして第13段落では、いざ、目を上げてみたところ、そこに見えるのは「異邦人」ではなく「あなたに贖罪の聖杯を差し出している人」のようで、そしてそれは「聖霊が彼の中に居るから」(13:1)だ、という様子が描かれています。

つまり、兄弟に対する「別の見方」の、最初の兆しとなっています。

そしてここでも、選択の余地が与えられています。

「救済を与えてくれるこの人は、あなたの友だろうか、それとも敵だろうか。自らの選択に応じたものを彼から受け取ることになる」(13:3-4)

ここにはもちろん、実際には選択の余地はありませんが、ただ、「選択の余地はない」ということを実感するためには、「選択の自由」が実感できている必要があります。

そうでなければ、選択の余地のなさは、自分の意志に関わらず何かを強要されているような感覚になってしまいかねません。

そして、この選択が転換点となっています。

第14段落では、「あなたの傍らに立つあなたの友、キリストを見なさい」(14:1)となっています。

つまり、兄弟に関する自分の知覚が、「恐ろしい人」→「異邦人」→「聖杯を差し出している人」→「キリスト」というように、漸進的に変容しています。

そして第15段落では、「これが、罪によって十字架につけられ、苦痛から解放されるのを待っているあなたの兄弟である」(15:1)として、兄弟が自分に赦しを求めていることが示されます。

そして、これが意外に大切ですが、その次の、「彼のみがあなたに赦しを差し出せるというのに、あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか」(15:2)というところ、つまり、自分で自分を直接赦すことはできないので、「共に赦しあう」状況を一緒にもたらすことが必要なんですね。

そうするとここで、咎めの悪循環から赦しの良循環へと、対人関係の質が変容することになります。

そうすると第16段落の冒頭、「ここに聖なる復活の場所があり、私たちは再びそこに帰る。そこは、救いが達成されて受け取られるまで、私たちが何度も戻っていく場所である」(16:1)という、聖なる復活の場所が確立します。

そうすると、キリストである兄弟を十字架刑から解放することは、「喜びの中で彼につながり、動揺と苦痛にさいなまれた彼の心から、罪悪の痕跡をすべて取り除きなさい」(16:4)というように、少し具体的になってきて、ここからこの段落の終わりまでは、実に軽やかな描写が続きます。

この辺りもまた、「涙なしには読めない」ならぬ「プレッシャーなしには読めない」わけですが、ま、実相世界に到達したら、こうすることができないということの方が「理解不能」になってきます。

もちろん、自分がこうすることができないこともまた、「理解不能」です(笑)。

そして第17段落では、「兄弟に信を置きなさい。なぜなら、信と希望と慈悲は、あなたが与えるべくあなたに与えられているものだからである」(17:1)とあります。

ここで「信と希望と慈悲」と訳されているのは「faith and hope and mercy」ですが、これはワプニック博士の作成した一覧によると、「コリント人の信徒への手紙 一」の13:13、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」というところが「元ネタ」のようです。

ところで、今、キングジェームス版の聖書を見てびっくりしたんですが、ここ、日本語訳の聖書を見たら、「愛」と訳されているところは原文では当然「love」だろうと思っていたら、原文は「mercy」、つまり奇跡講座の訳で「慈悲」と訳されているものと同じだったんですね。

日本語訳の他のバージョンもいくつか見てみましたが、ここは「愛」と訳されているようです。

ただしここは、American Standard Version や Contemporary English Version だと「love」で、Catholic Public Domain Version だと「charity」で、ほかのバージョンは大体「love」になっていました。

ちなみに、ここは元のギリシャ語では「アガペー」となっていました。

アガペー – Wikipedia

これは歴史的には、元は「charity」と訳されたものが、のちに「charity」が「慈善」の意味になったため「love」と訳されるようになった、といういきさつのようですが、で、初めにこれを「charity」と訳したのはティンダル訳のようで、そしてキングジェームス版はティンダル訳を概ね踏襲しているそうです。

ウィリアム・ティンダル – Wikipedia

ということは「mercy」は「愛」と訳した方がいいのかもしれませんが、テキストではあえて現代英語での「慈悲」の意味を保持しているのかもしれず、その辺りの詳しい事情に関しては、いえっさとヘレンさんに質問しないと分かりませんから、私はそもそもお呼びではありません。

いずれにせよ、古代ギリシャ語の「アガペー」は、「家族愛」というぐらいの意味だったものを、神学的な意味へと拡張して用いるようになり、そして「アガペー」の神学的な意味は、一言で言うと「神の愛」ということのようです。

ただし、例えば「サグラダファミリア」というのは「聖家族」という意味であるように、もしかしたらですが、カトリックには「人類みな神の一家」的な感覚が根底にある、のかもです。

それはともかく、ですからここで「慈悲」と訳されているところは、「神が人を愛するように、あなたもまたあなたの兄弟を愛しなさい」ということである可能性もあります。

そしてそれは第18段落の冒頭、「私がここであなたを自由にしたように、あなたも兄弟を自由にしなさい」(18:1)というように、具体的に表現されています。

翻訳だとちょっとわかりにくくなっていますが、ここの原文は「Free your brother here, as I freed you.」で、つまり、「兄弟を自由にする」のは「ここ」においてのことである、という含みがあります。

ここでの「free」は日本語だと「手放す」という方が、感覚としてしっくりくるかもしれません。

心の中で相手を手放すことが、神の愛で相手を愛することになります。

これは言葉ではちょっとわかりにくいかもですが、実際にやってみるとわかるかもしれません。

相手を自由にする(手放す)ことは、一見すると分離する「かのごとき体験」となりますが、それは、現段階での自分は、「霊的共依存」の感覚にあまりにも慣れ親しんでいるため、本当の意味での自由の感覚は、最初はむしろ違和感しか感じないからです。

つまり、この一連の流れは、神に対する恐れに取り組むに際して、兄弟との間にかかっているベールを取り去るときに、実際にどのように成り行くかに関する、詳細な漸進的記述がなされていて、文字通り「実践的ガイダンス」となっている、ということです。

さて、このように説明すると、人によってはすぐにでも取り掛かりたくなるかもしれませんが、これは、実相世界に到達しないとそもそも不可能であり、それ以前にこれを無理やり実践しようとすると、実際に「ただの分離」となりますし、場合によっては心がとても傷つく体験となりかねません。

こうしたことは、テキストは全体として、次第に理解や実践が進んでいくように書かれていて、とりわけ後半の「聖なる瞬間」からは、実践するにつれて体験がどのように進んでいくか、ということが順を追って書かれているため、ある段階に関して、その前の段階をすっ飛ばして実践しようとすると、どうしても困難になったり、場合によっては不可能になってしまう、ということのようだからです。

なので、いきなりテキスト全体を知的に理解すると、後半に書かれていることはとんでもなさすぎるとしか思えませんが、順を追って少しずつ実践していけば、いずれ「なんで以前はこんな簡単なことが分からなかったんだろう」という感じになってきますので、どうぞお楽しみに。

「これは当たり前のことについての単純な教えである」(cf. T-31.IV.7:7)というのはそういうことです。

もちろん、これは現段階ではイエスからものすごく「圧」を受けている感じしかないわけですけどね。

それからもう一つは、このセクションに似たことは、ワークブックのレッスン121、「赦しが幸せへの鍵である」でも練習しますが、レッスンの場合には自分の中で完結しているのに対して、テキストでは実際の対人関係において行うような記述になっている、という違いがあるようです。

「あなたと兄弟は信を抱いて一緒に目を上げるか、さもなければまったく目を上げないかのどちらかである」(T-19.IV.D.12:8)とは、兄弟と一緒に実践することを前提としているような記述になっています。

ただしこれは読みようによっては、すべて自分の心の中で起きていることとして読むこともできますから、これは、自分がどの実践段階に位置しているかによって読みもまた変化する、ということなのかもしれません。

ワプニック博士の解説に行き詰まるとき

いきなり過激なタイトルですが、これは「体験談」です。

というのは、ワプニック博士の解説を学んでいると、いろいろとわかった気になることができるので、もっと学ぼうという気にもなりますが、結局よくわからない、しかしもっといろいろと読み込むと少しは分かる、みたいなことを繰り返しているうちに、ふと気が付いたことがあります。

奇跡講座の簡単な一言ですらも、ワプニック博士の解説と照らし合わせなければ理解できなくなっている、という自分に気が付いた時、これはどうしようもないという感じになりました。

ですから、これはもう、博士の解説をいったん離れるしかない、というところに追い詰められたため、自分なりにどう感じるかというところに立ち戻るしかありませんでした。

そうしたら、博士の解説とは全く異なる読みが見えてきました。

そのことに関して、このサイトでは書いていこうと思っています。

で、原文だけではなく、ヘレンさんの元の筆記ノートとFIP版とを照らし合わせているうちに、奇妙なことに気が付きました。

それは、編集は確か、「個人的な言及を削除し、わずかな変更があったほかは、実質的に何も変わっていない」(cf. 『奇跡講座』まえがき、p.02 下段)とされているにもかかわらず、かなり後の方まで全体的に細かく変更されている、ということです。

もちろん、ほとんどは前置詞や、わずかな語句が書き換えられているにとどまっていますが、ただ、そのわずかな変更により、書かれている内容がまるで異なったものになっている、としか思えない箇所がいくつも出てきました。

こうしたことは、「正しい前置詞」とかを追求するという意図ではなく、ワプニック博士をはじめとした関係者の方々にとって、そうした「わずかな変更」が必要だと感じさせた、無意識にある「何か」が気になった、ということです。

これは個人的なものでもあり普遍的なものでもあるので、そもそも、そうした方々に対する個人的な当てつけでは全くありません。

当時の時代意識の到達度自体による「知覚の限界」「認識の限界」というようなことに関してです。

私は、ワプニック博士の解説を参照しなければ、奇跡講座がまるで理解できなくなっている、ということに気が付いた時、これはよくないと感じたので、博士の解説を離れましたが、だからといって、他の学習者の方にも同じことをお勧めする意図はありません。

逆に、私の読解に対して、もし、きっちりとした反論があれば、それを求めています。

ただし、「反論のための反論」は、形の上では議論しているようでありながら、実際には相手を言い負かすことが目的なため、そうした議論は、すればするほど自他ともに消耗していくだけで、言葉の真の意味で「時間の無駄遣い」でしかありませんから、そうしたものは、申し訳ありませんがお断りさせてください。