「譲歩」について

どうやら、奇跡講座の難解さは、いくつかの捉え方についてあまり知られていないからのようだ、ということを、いつごろからか思うようになった。

その一つが「譲歩」というものである。

ただしこれ、日本語と英語ではまるで異なっている。

日本語と英語の「譲歩」の違いとは!? (kenyu-life.com)

英語の文法でよく聞く「譲歩」とは? 5つの譲歩構文まとめ (eigo-box.jp)

上の2つのサイトにあるように、日本語、ないしは日本人の思う「譲歩」とは、自分の立場までも相手に譲ることを指しているが、英語の場合の「譲歩」とは、表現の上では相手の立場を認めているが、主張しているのは自分の立場である。

そして、この「譲歩」という観点から、例えば以下の段落を読んでみよう。

したがって、彼らは罪が失われることは呪われることだと考える。そして、あたかも聖霊が、天から遣わされた地獄の使者であり、背信と狡猾さによって解放者と友人を装いながら神の復讐を行う者であるかのように、彼らは聖霊から逃れようとする。彼らにとって、聖霊は天使の衣をまとって欺こうとする悪魔に他ならない。そして、聖霊が彼らのために用意している脱出口は、天の門のように見える地獄への扉以外の何ものでもない。T-25.VIII.7 (公認訳)

「譲歩」という観点から捉えると、つまり、「これらすべて、実は起きていない」という暗黙の前提の基に、「しかし現段階では、あなたは現にこうしたことが起きていると知覚している」ということに関して、上のような表現が成立している、ということになる。

そのため、例えば以下のようになるであろう。

したがって、彼らは罪が失われることは呪われることだと考えるが、実際には罪が失われることは祝福をもたらす
そして、あたかも聖霊が、天から遣わされた地獄の使者であり、背信と狡猾さによって解放者と友人を装いながら神の復讐を行う者であるかのように、彼らは聖霊から逃れようとするが、彼らとしては地獄の使者から逃れようとしている「つもり」なのだ
彼らにとって、聖霊は天使の衣をまとって欺こうとする悪魔に他ならないが、いくら聖霊が悪魔に他ならないと見えようが、聖霊が聖霊であることには変わりがないため、これは救いをもたらす
そして、聖霊が彼らのために用意している脱出口は、天の門のように見える地獄への扉以外の何ものでもないと彼らには見えているからこそ、彼らとしては地獄に陥らないようにと全力で抵抗し続けている「つもり」なのだが、結果的に彼らは、救済に対して抵抗し続ける格好になっている。(赤字が捕捉箇所)

あまり効果的ではないが、ざっとこのようになっている。

例えばだが、以下のような状況を想像してみよう。

テキストの上の箇所で、黒字で書かれている部分は、本人の眼前に展開している円弧のうち、本人の側に映し出されている様子についての描写である。

そこには、実に「恐ろしい」様子が映し出されているため、本人はすっかり怯え切っている。

では、そのように本人がすっかり怯え切っている様子を、緑色の丸で示した、本人の様子を見ている人から見てみたとき、どうなるだろうか。

本人の様子を見ている人からは、円弧にどのような世界が映し出されているのかは見えていない。

その円弧は、演説で用いられるプロンプトのように、本人の側にだけ何かが映し出されているからである。

そうすると、緑色の丸の人からは、本人があたかも「勝手に怯え」ているかのように見える。

ざっとこのような状況を「下敷き」として想定してみると、多少わかりやすくなるかもしれない。

しかし、例えばだが、「あなたが悪魔だと思っているものは聖霊なのだ」というようなことをダイレクトに言うと、場合によっては本人を攻撃することにもなりかねない。

そこで譲歩して、「現段階のあなたにとっては悪魔と見えている」という前提から表現している、というわけである。

では、先の図をもう一度、別の箇所に適用してみよう。

救いの秘密は、「あなたは自分で自分にこれを行っている」ということだけである。T-27.VIII.10:1

これもまた、「あなたは自分で自分にこれを行っている」というのは、「円弧の内側」のことを指していると捉えると、起きている状況に関して、多少だがわかりやすくなるだろうか。

こうした状況を、別の角度から説明を試みてみよう。

スピリチュアルで、最近よく、「世界とは携帯版ゲーム機の画面のようなものだ」というようなたとえを見るようになった。

例えば、以下のような状況において、本人にとっての世界とは、画面の中のことを指している、というようなたとえである。

ところで、このたとえでいうと、この本人にとっては、ゲーム機の画面以外の部分はそもそも見えていないことになる。

そして、その様子を他の人から見ると、本人はこのような状況になっている、というわけである。

本人にとっての世界とは、本人が装着しているVRゴーグルの画面に映し出されているものなのだが、それは他の人からは全く見えないものとなっている。

そして実際には、このVRゴーグルの存在自体、他の人からは見えないものとなっている。

本人が「プライベートVRゴーグル」の中しか見えていない様子を相手の立場から見ると、その様子は、本人の肉眼はちゃんと機能している「はず」であるにも関わらず、なぜか、あたかも本人には目の前の現実が何も見えていないかのように、他の人からは見える。

それは、本人が見ているのは「見えないVRゴーグル」の画面であり、目の前の現実ではないからである。

その様子は、言葉の正確な意味で「夢遊病」の状態であり、また、その様子は「白昼夢に入り込んでいる」とも表現できるだろう。

こうしたことが今までわかりにくかったのは、「本人にとっては、「それ」はとても現実味があるが、他の人からは「それ」はそもそも見えない」ということが、今まではよく見えていなかったため、言葉上の表現がどうしても晦渋になってしまっていたことによるのであろう。

ざっとこうしたことを踏まえて奇跡講座を読むと、実はそれほど難しいことは書かれていない、ということが、少しずつ分かってくるであろう。

難しく感じるのは、VRゴーグルという「現状を説明するための象徴」が、今までは登場していなかったことによる、という側面が、実はかなり大きいようだが、逆に言うとただそれだけのことである。

例えばだが、もし、奇跡講座が筆記されていた当時に、すでにVRゴーグルが登場していたとすれば、イエスはそのたとえを用いたかもしれない。