奇跡講座に見られる漸進的記述

これは「論より証拠」だと思うので、実例をもとに説明しますね。

テキスト編、T-19.IV.D.8-17 を例に挙げます。

その前に、まず、このくだりを理解するにあたっては、「贖罪を受け入れ、幻想が実在しないと学ばない限り、誰も恐怖を抱かずに神に対する恐れを正視できない」(T-19.IV.9:1)ということに注意が必要です。

これ、実は意外に重要です、というのは、こうしたことが学ばれるまでは、何もかもを逆に取り違えてしまうからです。

ですから、こうした準備なしに、いきなり、神に対する恐れに直面してしまったら、それは覚醒とは真逆の体験になりかねません。

その夢(「密かな夢」(cf. T-27.VII.11:7)のこと)はあまりにも恐ろしく、あまりにも実在性のあるものに見えるため、もっと優しい夢が彼の目覚めに先立たない限り、彼が恐怖の冷汗や死を恐れる悲鳴なしに実相に目覚めることはできないだろう。それは、彼の心が穏やかになり、愛を込めて目覚めを呼びかける声を恐れずに、歓迎できるようにする優しい夢であり、彼の苦しみが癒され、兄弟が友人となっている夢である。T-27.VII.13:4 (公認訳、以下同じ)

これは、『神の使者』(ゲイリー・レナード著)、p.346 にも引用されている箇所です。

先に書いた「覚醒とは真逆の体験」とは、例えばトラウマ体験とかですが、これに関する注意喚起は、テキスト第1章、T-1.VII.4 でなされています。

そのようなこと(このコースの後半のステップを周到な準備なしで始めること)をすれば、畏怖の念が恐れと混同されて、その経験は至福よりも精神的外傷(トラウマ)をもたらすようなものとなってしまう。T-1.VII.4:8

ま、実際にこんなことをしたら、至福の中ではなく、精神病院の固いベッドの上で拘束具を付けられて目覚めることになるので(一応体験談です・笑)。

というのは、周到な準備がないままに、いきなり直面する実相世界は、文字通り「気が狂う」ほど「恐ろしい」世界だからです。

では、記述の漸進性について、ざっと見てみましょう。

T-19.IV.D.8-17 は、「i. ベールを取り去る」ですが、まず、第8段落は「前置き」のようなものとなっています。

そして 9:4 「しばしここに立ち、震えずにいなさい」という辺りから、兄弟に投影している、神に対する恐れを見てみるところに入ります。

第10段落は第9段落の補足的な説明です。

第11段落では、「神に対する恐れを見る」ということに少し近づいています。

そして、第9,10段落ではまだ、恐怖がベースとなった捉え方でしたが、この辺りでは少し論調が変わっていることに気が付かれるかもしれません。

「完全な赦しを前にして、あなたはいまだに赦すことなく佇んでいる。あなたは兄弟を恐れているからこそ、神を恐れているのである」(11:4-5)あたりから後は、一見すると「裁き」「断罪」「決めつけ」のような文章ですが、そうではなく、これは「それでも大丈夫なんだよ」という、イエスによる心からの勇気付けです。

例えば、「あなたは兄弟を恐れているからこそ、神を恐れているのである」というのは、「そんなにも兄弟を恐れているあなたは、なんといけない・至らぬ・できてない・欠陥だらけの人であることか」といった意味ではありません。

そうではなく、「あなたが神を恐れているのは、兄弟を恐れているからなんだよね。だから、今、恐れずに兄弟を見てみよう。そうすれば、神に対する恐れもまた取り払われるよ」という意味です。

さて、第12段落では、兄弟は「依然として異邦人のように見えている」(12:1)、つまり、相手は自分とは相容れず、そりが合わない、見知らぬ人として見えている、ということです。

この段落は、自分が実は相手をどのような人として見ているか、に関する解明となっています。

そして、兄弟を赦す必要性に関する言及の後、「そして、あなたと兄弟は信を抱いて一緒に目を上げるか、さもなければまったく目を上げないかのどちらかである」(12:8)となっている、つまり、目を上げるか上げないかは、両者がともに決断することだということです。

そして第13段落では、いざ、目を上げてみたところ、そこに見えるのは「異邦人」ではなく「あなたに贖罪の聖杯を差し出している人」のようで、そしてそれは「聖霊が彼の中に居るから」(13:1)だ、という様子が描かれています。

つまり、兄弟に対する「別の見方」の、最初の兆しとなっています。

そしてここでも、選択の余地が与えられています。

「救済を与えてくれるこの人は、あなたの友だろうか、それとも敵だろうか。自らの選択に応じたものを彼から受け取ることになる」(13:3-4)

ここにはもちろん、実際には選択の余地はありませんが、ただ、「選択の余地はない」ということを実感するためには、「選択の自由」が実感できている必要があります。

そうでなければ、選択の余地のなさは、自分の意志に関わらず何かを強要されているような感覚になってしまいかねません。

そして、この選択が転換点となっています。

第14段落では、「あなたの傍らに立つあなたの友、キリストを見なさい」(14:1)となっています。

つまり、兄弟に関する自分の知覚が、「恐ろしい人」→「異邦人」→「聖杯を差し出している人」→「キリスト」というように、漸進的に変容しています。

そして第15段落では、「これが、罪によって十字架につけられ、苦痛から解放されるのを待っているあなたの兄弟である」(15:1)として、兄弟が自分に赦しを求めていることが示されます。

そして、これが意外に大切ですが、その次の、「彼のみがあなたに赦しを差し出せるというのに、あなたは彼に赦しを差し出したくはないだろうか」(15:2)というところ、つまり、自分で自分を直接赦すことはできないので、「共に赦しあう」状況を一緒にもたらすことが必要なんですね。

そうするとここで、咎めの悪循環から赦しの良循環へと、対人関係の質が変容することになります。

そうすると第16段落の冒頭、「ここに聖なる復活の場所があり、私たちは再びそこに帰る。そこは、救いが達成されて受け取られるまで、私たちが何度も戻っていく場所である」(16:1)という、聖なる復活の場所が確立します。

そうすると、キリストである兄弟を十字架刑から解放することは、「喜びの中で彼につながり、動揺と苦痛にさいなまれた彼の心から、罪悪の痕跡をすべて取り除きなさい」(16:4)というように、少し具体的になってきて、ここからこの段落の終わりまでは、実に軽やかな描写が続きます。

この辺りもまた、「涙なしには読めない」ならぬ「プレッシャーなしには読めない」わけですが、ま、実相世界に到達したら、こうすることができないということの方が「理解不能」になってきます。

もちろん、自分がこうすることができないこともまた、「理解不能」です(笑)。

そして第17段落では、「兄弟に信を置きなさい。なぜなら、信と希望と慈悲は、あなたが与えるべくあなたに与えられているものだからである」(17:1)とあります。

ここで「信と希望と慈悲」と訳されているのは「faith and hope and mercy」ですが、これはワプニック博士の作成した一覧によると、「コリント人の信徒への手紙 一」の13:13、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」というところが「元ネタ」のようです。

ところで、今、キングジェームス版の聖書を見てびっくりしたんですが、ここ、日本語訳の聖書を見たら、「愛」と訳されているところは原文では当然「love」だろうと思っていたら、原文は「mercy」、つまり奇跡講座の訳で「慈悲」と訳されているものと同じだったんですね。

日本語訳の他のバージョンもいくつか見てみましたが、ここは「愛」と訳されているようです。

ただしここは、American Standard Version や Contemporary English Version だと「love」で、Catholic Public Domain Version だと「charity」で、ほかのバージョンは大体「love」になっていました。

ちなみに、ここは元のギリシャ語では「アガペー」となっていました。

アガペー – Wikipedia

これは歴史的には、元は「charity」と訳されたものが、のちに「charity」が「慈善」の意味になったため「love」と訳されるようになった、といういきさつのようですが、で、初めにこれを「charity」と訳したのはティンダル訳のようで、そしてキングジェームス版はティンダル訳を概ね踏襲しているそうです。

ウィリアム・ティンダル – Wikipedia

ということは「mercy」は「愛」と訳した方がいいのかもしれませんが、テキストではあえて現代英語での「慈悲」の意味を保持しているのかもしれず、その辺りの詳しい事情に関しては、いえっさとヘレンさんに質問しないと分かりませんから、私はそもそもお呼びではありません。

いずれにせよ、古代ギリシャ語の「アガペー」は、「家族愛」というぐらいの意味だったものを、神学的な意味へと拡張して用いるようになり、そして「アガペー」の神学的な意味は、一言で言うと「神の愛」ということのようです。

ただし、例えば「サグラダファミリア」というのは「聖家族」という意味であるように、もしかしたらですが、カトリックには「人類みな神の一家」的な感覚が根底にある、のかもです。

それはともかく、ですからここで「慈悲」と訳されているところは、「神が人を愛するように、あなたもまたあなたの兄弟を愛しなさい」ということである可能性もあります。

そしてそれは第18段落の冒頭、「私がここであなたを自由にしたように、あなたも兄弟を自由にしなさい」(18:1)というように、具体的に表現されています。

翻訳だとちょっとわかりにくくなっていますが、ここの原文は「Free your brother here, as I freed you.」で、つまり、「兄弟を自由にする」のは「ここ」においてのことである、という含みがあります。

ここでの「free」は日本語だと「手放す」という方が、感覚としてしっくりくるかもしれません。

心の中で相手を手放すことが、神の愛で相手を愛することになります。

これは言葉ではちょっとわかりにくいかもですが、実際にやってみるとわかるかもしれません。

相手を自由にする(手放す)ことは、一見すると分離する「かのごとき体験」となりますが、それは、現段階での自分は、「霊的共依存」の感覚にあまりにも慣れ親しんでいるため、本当の意味での自由の感覚は、最初はむしろ違和感しか感じないからです。

つまり、この一連の流れは、神に対する恐れに取り組むに際して、兄弟との間にかかっているベールを取り去るときに、実際にどのように成り行くかに関する、詳細な漸進的記述がなされていて、文字通り「実践的ガイダンス」となっている、ということです。

さて、このように説明すると、人によってはすぐにでも取り掛かりたくなるかもしれませんが、これは、実相世界に到達しないとそもそも不可能であり、それ以前にこれを無理やり実践しようとすると、実際に「ただの分離」となりますし、場合によっては心がとても傷つく体験となりかねません。

こうしたことは、テキストは全体として、次第に理解や実践が進んでいくように書かれていて、とりわけ後半の「聖なる瞬間」からは、実践するにつれて体験がどのように進んでいくか、ということが順を追って書かれているため、ある段階に関して、その前の段階をすっ飛ばして実践しようとすると、どうしても困難になったり、場合によっては不可能になってしまう、ということのようだからです。

なので、いきなりテキスト全体を知的に理解すると、後半に書かれていることはとんでもなさすぎるとしか思えませんが、順を追って少しずつ実践していけば、いずれ「なんで以前はこんな簡単なことが分からなかったんだろう」という感じになってきますので、どうぞお楽しみに。

「これは当たり前のことについての単純な教えである」(cf. T-31.IV.7:7)というのはそういうことです。

もちろん、これは現段階ではイエスからものすごく「圧」を受けている感じしかないわけですけどね。

それからもう一つは、このセクションに似たことは、ワークブックのレッスン121、「赦しが幸せへの鍵である」でも練習しますが、レッスンの場合には自分の中で完結しているのに対して、テキストでは実際の対人関係において行うような記述になっている、という違いがあるようです。

「あなたと兄弟は信を抱いて一緒に目を上げるか、さもなければまったく目を上げないかのどちらかである」(T-19.IV.D.12:8)とは、兄弟と一緒に実践することを前提としているような記述になっています。

ただしこれは読みようによっては、すべて自分の心の中で起きていることとして読むこともできますから、これは、自分がどの実践段階に位置しているかによって読みもまた変化する、ということなのかもしれません。

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