「彼岸語」と「此岸語」

奇跡講座でぶつかる壁の最大のものは、「何が書かれているのか、さっぱりわからない」というものでしょう。

ま、当たり前っちゃあ当たり前ですが。

ところが実は、もう一つあるようなんですね。

それのことを差し当たって、「彼岸語」と「此岸語」としてみました。

以下、そのことに関して説明します。

まず、彼岸語も此岸語も、用いる言葉は基本的に同じです。

つまり、例えば日本語なら日本語、英語なら英語で、同じ日本語でも彼岸語と此岸語があり、同じ英語でも彼岸語と此岸語とがある、というような感じです。

ところが、彼岸語と此岸語とでは、いろいろとニュアンスなどが反対になっているようです。

わかりやすいものをいくつかピックアップしてみます。

「安らかに休み給え」とは死者のための祝福ではなく、生きている者のための祝福である。なぜなら、休息は眠ることからではなく、目覚めることからやってくるからである。……あなたはただ目覚めているがゆえに、安らかに休むことができる。(T-8.IX.3:5; 4:9)

ここの、「安らかに休み給え」は、元の英語では「rest in peace」です。

はい、死者を弔う言葉ですね。

ところが、奇跡講座ではこれは、死せる者ではなく生ける者のための言葉である、とされています。

これを、「彼岸語」と「此岸語」ということで言ってみると、つまり、「rest in peace (安らかに休み給え)」は、此岸語としては死者のための弔いの意味になるが、彼岸語としては生ける者を祝福する言葉となる、ということになります。

また、こういうのもあります。

あなたが純粋な赦しについて感じる主な難しさは、赦すべき対象が幻想ではなく真実であると、あなたが今でも信じていることから生じる。あなたは赦しを、存在するものを見過ごそうとする無駄な試みのように考えている。すなわち、真実を無視し、幻想を現実に仕立て上げることで自分を欺くという不当な努力を強いるものだと思っている。(W-pI.134.3:1-2)

言語的理解としては、これは、「罪をリアルなものとして、しかる後にそれを赦そうとする」といったことを指しています。

例えば、ある人の「攻撃性」を「赦す」というとき、「その人は実際に攻撃的な人である」、もしくは「その人の攻撃性はリアルである」という前提から始めます。

ですから、その人の「攻撃性」を「赦す」というのは、「存在するものを見過ごそうとする」ことです。

つまり、そこで無視されている真実とは、「その人は依然として神の子である」ということであり、現実として仕立て上げられた幻想とは、「その人は攻撃的な人である」ということです。

ですが、普通はどう見たってその人は攻撃的な人だとしか見えません。

どう見たってそれは「現実」であり、それが「幻想」だ、なんて全く思えません。

だからこそ赦す必要があるわけですよ。

でも、赦しとは、その人は神の子である、ということがわかることです。

しかし、どう見たってその人は攻撃的です。

そこでどうしても人は、例えば「愛ある攻撃」「愛するがゆえの叱責」といったような、イミフで複雑な解釈を施そうとする方に流れます。

例えば「愛のムチ」とかもそうですね。

そうすると例えばですが、「こんなにもこの人は攻撃的なんだけど、でも、それでもこの人はやっぱり神の子なのだ」みたいなことになります。

で、赦しとはそういうことではないのではないか、というのが、ここで言いたいことです。

まず、まことに残念なことですが、この、「こんなにもこの人は攻撃的なんだけど、でも、それでもこの人はやっぱり神の子なのだ」とするのは、赦しではありません。

実際にはこれは、自分の知覚を糊塗する、つまり以前にもまして「塗り固める」ことをしています。

しかも、自分にとって糊塗しています。

言い換えると、以前にもましてますます見えなくなっていきます。

そうした人の様子を他人の側から見ると、例えばですが、その人はいかにも明るく振る舞っているんですが、しかしよく見ると、その人の目はどこも見ていないような感じがします。

それは、「完璧な糊塗」によって、その人は現実が全く見えなくなっているため、他の人から見て、その人は「どこも見ていない」ように見えるためです。

でも、その人自身にとっては、「現実」はとても「明るい」「よい」「楽しい」ものとして見えています。

例えばこうしたことが生じるようです。

「その人は実際に攻撃的な人である」という前提から始まる赦しによって行きつくところは、具体的には例えばこんな感じ、つまり、以前よりももっとその人が見えなくなるが、当人は、その人が「見えている」という思い込みにはまっていく状態、のようです。

これは精神医学的には「否認」と呼ばれるものなのかもしれません。

ただし、ここでは、こうしたことを非難攻撃したり咎めたりしたいのではありません。

こうしたことが起きてしまうのは、この記事の言い方でいうと、奇跡講座に書かれていることを「彼岸語」ではなく「此岸語」として受け取ることによるのではないか、ということが、ここで言いたいことです。

通常は、例えば「こんなにもこの人は攻撃的なんだけど、でも、それでもこの人はやっぱり神の子なのだ」とするというのは、とても「崇高な」「神聖な」「真摯な」「気高い」ことです。

つまり、これはどう見ても防衛ではない、としか感じられません。

それどころか、とてもまじめで真剣に取り組んでいるようですね。

こうした状況に関して、奇跡講座では例えば、以下のように描写しています。

この側面は、決して自分から先には攻撃しない。しかし、毎日、数知れない細々とした事柄が、その無垢性に小さな攻撃をしかけ、挑発して苛立たせ、ついにはあからさまな罵詈雑言を吐くまでに至らしめる。……この自己の概念が、実に誇り高く装っている無垢なる顔は、自己防衛においてであれば、攻撃を耐え忍ぶことができる。この世界が無防備な無垢性を苛酷に扱うというのは、周知の事実ではないか。(T-31.V.3:3-4; 4:1。公認訳を一部書き換え)

ちなみに、「この世界が無防備な無垢性を…」の箇所は、表現に「ひねり」が加わっていて、これは、無垢なる顔の「心のつぶやき」のようなものとなっている、つまりイエスが言いたい言い方ではなく、無垢なる顔が言いたいであろうことを、イエスが「代弁」した格好になっています。

そのため、これはソクラテス的アイロニー(皮肉)となっています。

そして、この無垢なる顔の様子は、此岸語としての「赦し」を、「精一杯実践」している様子となっているようです。

そうすると、この無垢なる顔を装っている自己概念的には、赦しとは、先のレッスンに書かれているように、まさに「存在するものを見過ごそうとする無駄な試み」なんですが、それでも、その「赦しという名の「無駄な試み」」を全力で成し遂げようとして、「真実を無視し、幻想を現実に仕立て上げることで自分を欺くという不当な努力」を、その努力がうまくいかなければいかないほど、今までにもましてなお一層、努力と精進に励むようです。

さて、以上は、同じ言葉が異なる意味となるケースに関してでしたが、次は、同じ意味が異なる言葉となるケースに関してです。

相手が自分の意に反する振る舞いを見せるけど、でもそのことが不満な時、人は往々にして、「私はあなたを信頼している」と思い、また口にします。

この時の「信頼する」とは、実際には、相手が自分の思い通りの様子を見せることだけを望んでいます。

つまり、ここでいう「信頼する」は、どちらかというと「期待する」という感じのようです。

これはつまり、本当は信頼していないからですね。

では、言葉の正しい意味での「信頼する」とは、例えばどのようなものなのかを、少し想像してみます。

以前、とある心理学者が著作の中で、「信用」と「信頼」は違う、と言っていました。

別に単語上の区別自体が問題なのではなく、その方が区別したかったのは、「条件付き」と「無条件」とは異なる、ということであり、そして「条件付き」の方を「信用する」、「無条件」の方を「信頼する」として識別しようとしていました。

実際には、両者は割と入り混じって用いられているため、ざっくばらんな日常会話でここまで言葉にうるさくなると、他の人から煙たがられることは確実です(笑)が、それはともかく、例えば上の、「相手が自分の思い通りであってほしい」というのは条件付きであり、「信用する」という方だということになります。

では、無条件の信頼とはどのようなものか。

相手の様子によって信じたり信じなかったりするもの条件付きです。

では、無条件とは、相手の様子とは無関係である必要があります。

ここで、無条件というと、「相手の様子がどうであっても成立する」と言いたくなりますが、これは実は、「相手の様子とは無関係に成立する」とは、一見すると似ているようですが、厳密に言うと次元が異なっています。

これはトポロジー的には「球面から1点が欠けている」状態と「欠落のない球面」との違いに相当しています。

両者は「位相が異なる」という言い方をしますが、これは一般的に言う「次元が違う」というものになります。

心情的に表現すると、前者はまだ「例外」へのこだわりがありますが、後者はそれもなくなっています。

これつまり、「手放す」ということなんですね。

はい、ですから、彼岸語としての「信頼する」は、此岸語でいうと「手放す」に相当している、という可能性があるわけなんですね。

自分の心の中で相手を手放すことは、実際に相手を自由にすることであり、それが相手を信頼することとなっています。

この場合の「信頼」とは、相手のことは相手の自由に任せている状態ですから、普通の意識状態の場合、これはものすごく怖くなったり不安になったりします。

これは、通常の場合、人は心の中の他者イメージにしがみつくことによって心の安定を得ているため、それを「手放す」ことは通常、とてつもない恐れを伴うからです。

だからこそ、こうしたことは少しずつ取り組んでいく必要があります。

以上のようなことを踏まえると、先の「私はあなたを信頼している」というときの「信頼する」というのは、此岸語としての「信頼する」のことですが、これは彼岸語としては、「固執する」「執着する」とほぼ同義になる、のかもしれません。

こうしたことは必ずしもきっちりとした対応を見せるとは限りませんが、「彼岸語」と「此岸語」という捉え方から、言語による理解の実情に関して少しでもご理解いただけたら、まことに幸いです。

なお、お気づきの方もおられるかもしれませんが、「彼岸語」とはつまり、自我の領域の外からの表現のことです。